歌舞伎座楽市とは

全国各地の観光・商品・店舗を紹介する「歌舞伎座楽市」を新たに開設します!地方活性化への貢献をめざし、バイヤーが厳選した全国の特産品や銘品を歌舞伎座ならではの視点で紹介。活気溢れる自由で楽しい〝歌舞伎座楽市”を観光PRの拠点として、伝統と感動を提供していきます!ご期待ください!

歌舞伎座浮世絵散歩

牧野健太郎先生ならではの楽しい切り口で、ご一緒に浮世絵の世界を歩きましょう!

『東海道五十三次 蒲原 夜之雪』 歌川広重
第八回 読み解き浮世絵コード
~不思議な雪景色~

葉月八月は、夜之雪、東海道の蒲原の浮世絵でございます。

「東海道五十三次」のなかでも特に人気のある一点、雪景色の逸品、美しい浮世絵版画です。
広重さん、東海道の53の宿場に、出発の日本橋と上がり京都の2点を加え、55枚シリーズとしました。その中の二点に「雪のシーン」を描かれました。一点が現在の三重県、伊賀市と鈴鹿市の間の「亀山・雪晴」、そしてもう一点がこの「蒲原」です。
立派な本陣のある「蒲原宿」は、現在の静岡市清水区蒲原、ミカンのなる温暖な駿河の国です。冬でも暖かでやわらかな陽ざしが続く、雪なんか見事に降らないその「蒲原」の雪景色です。

広重さん37歳の出世作「東海道五十三次」。作品は、いっぺんに55枚全部揃えて売り出すわけではなく、一作、一作描いて、彫って、摺って、売り出します。東海道も日本橋を発って保土ヶ谷、箱根、原と人気が出て大ヒットよく売れて、版元もだんだん乗ってくるあたりです。(もし人気が出ないと、作品が売れないと途中ストップの可能性もありました。)
駿河の国に入って、ビックな富士山の原宿、左富士の吉原宿、そして日本橋から16枚目の蒲原宿です。ここは駿河湾に面した静かな宿場、版元竹内さんも広重さんも「ここいらでワンポイント、ちょいと考えた」、その浮世絵がこの「蒲原」です。

「雪」とは縁遠い温暖な駿河に白雪でも降らせて、今でも「静岡県に積雪」とならばニュースです。ならばとばかり「蒲原雪景色」、みなが驚く美しい「夜之雪」、創作の一点です。
さらにまるで水墨画、真っ白の雪から、淡い灰色、濃い灰色、黒の線、「ぼかし」も天ぼかしから、下からの地ぼかし、濃淡からピークのつくりまで、凝りに凝った摺師の技も満載です。

そして時刻は「夜」、雪明りの中、足首まで埋まりそうな雪降る坂を行きかう人たちです。

左手のお方、番傘を半分開き、足元は高下駄、さらに杖までついて、これが大変なんです、寒くて滑って、下駄ですよ。ひとつ間違うと「二の字、二の字」の下駄の歯、その下駄の歯の間に雪が詰まって、溜まって雪が伸びて、こけちゃうんです、ドキドキものの小幅な歩き、静岡の雪なら、重い雪、湿った雪は溜まりやすいんです。

右手の「藁蓑(わらみの)」のお方、稲のわらを編んで作った雨具、ここでは素敵な雪衣裳の防寒具、稲作文化の素敵な工芸品、おじさんの手仕事、手作りですか?、おじさん、下ばっかり見ているとこけますよ、もっと背筋伸ばして、前向いた方が滑りませんよ~。

その前を行くおじさんは、スマートですね、笠も合羽も旅慣れて、前をしっかり見据えて慎重に、夜ですね。それにしてもさすがです、左手に隠れているのは、旅の必需品、蛇腹式の「小田原提灯」でしょうか。
また、雪降りを予想していたのか、ポルトガルの宣教師が着ていた事から広まった「capa」、合羽、旅行用にぴったり、軽い紙製の雨具のカッパ、防寒にもなりますね。
素材の紙に「柿渋」塗って、さらに「えごまの油」か「桐油」を何回も塗って乾かして、出来た丈夫な「油紙」、それで作った小さく折りたためる合羽ですね、さすがです。

しかしこの「蒲原・夜之雪」は、あくまでも広重さん達の創作の一品、東海道の旅のガイド・ビジュアル版55枚の中でいろいろなシーン、夜に夕方、そして早朝、天候も晴れに雨、風、霧、くもり、さらに雪景色にも挑戦しています。
実は、版元・保永堂の竹内孫八さんのお父さんが新潟の「蒲原村」のご出身で、雪国のシーンを入れたとか。広重さんいろいろと気も使う優しい絵師だったのでしょうか、そんな噂の真相も、この美しい雪に隠されています。

観光しませう!

神奈川県 横浜
六月大歌舞伎第三部『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の舞台、横浜を訪れました。

岩亀楼(がんきろう)の石灯籠

黒船来航をきっかけに歴史の表舞台となった横浜。1859年の開港にともない、横浜公園一帯が埋め立てられ、港崎(みよざき)町と命名され、その中に岩亀楼などが開業し国際社交場として栄えました。写真下段右の石灯籠は、妙音寺(南区三春台)から横浜市に寄贈されたもので、石に刻んである「岩亀楼」の文字(写真下段右)から、岩亀楼にちなむものであることがわかります。岩亀楼は、はじめ港崎町に建てられ、慶應2年の大火で類焼、以後二転三転して明治16年(1883年)永楽町に移り、明治17年に廃業しました。
この石灯籠は明治初年頃のものと思われますが、いつ妙音寺に移されたかは判明していないとの事です。震災、戦災によって多くの文明開化期の遺物を失った横浜にとは貴重な文化財のひとつといわれています。

写真
上段:物語の舞台、横浜
下段左:岩亀楼の石灯籠
下段右:岩亀楼の文字

岩亀稲荷(がんきいなり)

物語の引き金となる遊女・亀遊は、幕末に実在したと言われています。さらに、亀遊が身を置く岩亀楼は、港崎遊廓に実在した遊女屋で、随一の勢力を誇った大店だったとの事です。
遊女達が病に倒れた時、静養する寮が岩亀横丁にあり、信仰していたお稲荷様が岩亀楼の寮内にあったので岩亀稲荷と呼ばれ現在も信仰が受け継がれています。よほど気を付けないと見過ごしてしまいそうな間口90センチほどの細い路地の奥に岩亀稲荷が鎮座しています。「露をだにいとふ倭(やまと)の女郎花(おみなえし)ふるあめりかに袖はぬらさじ」の木札(写真)も掲示されていました。このお稲荷様にお願いするとそのご婦人の病いが治ると言い伝えられています。

幕末の吹き荒れる尊王攘夷の嵐の中、横浜の歴史を陰から支えた遊女たちがいる、そんな思いを胸に、お参りされてみてはいかがでしょうか。

写真
上段:岩亀稲荷 門前
下段左:岩亀稲荷
下段右:木札

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鮭川歌舞伎

《鮭川歌舞伎の歴史》
鮭川歌舞伎の起源は、江戸時代の安永2年まで遡り、約250年の歴史があります。江戸から巡業してきた歌舞伎一座が村人に伝えたのが始まりとされています。
鮭川村には当時、京塚芝居「京旭座」、石名坂芝居「豊石座」、上大渕芝居「大渕座」、川口芝居「川村座」の4つの歌舞伎の一座が存在しました。しかし、時が経つにつれて活気が薄れ、一時村内の歌舞伎が消滅の危機を迎えます。そこで、このまま歌舞伎文化を失う訳にはいかないと有志が立ち上がり、昭和46年に4つの座を統合し、「鮭川歌舞伎保存会」が結成されます。
この保存会結成のニュースが東京の「舞踏千升会」の市川千升氏に伝わり、劇団が使用していた舞台装置や道具類が多数寄贈され、鮭川歌舞伎再興の大きな力となりました。その後、平成18年1月には「山形県指定無形民俗文化財」に指定されました。

《現在の鮭川歌舞伎》
毎年6月には鮭川村中央公民館を会場に定期公演を開催し、500名を超える来場者があります。また、子ども歌舞伎の取り組みなど後継者の育成にも力を入れ、多くの若者が役者として活躍し、今では役者の半数以上が地域の若者が占めています。

《土舞台公演の復活へ》
鮭川歌舞伎保存会結成50年の節目を迎えるにあたり、ひとつのプロジェクトが動き出しています。土舞台公演の復活です。
50年前までは、村内の神社境内にある土で盛られた舞台「土舞台」の上で歌舞伎を演じていました。現在は歴史ある土舞台での上演は行われておりませんが、今年の6月12日(日)に、鮭川歌舞伎保存会を中心に土舞台での復活公演を予定しています。
近年では少なくなった、大自然の中での農村歌舞伎公演を、多くの皆様にご覧いただく予定です。(予約申し込みは終了いたしました)
当日はインターネットでのライブ配信も予定しておりますので、ぜひご覧いただければと思います。
http://youtu.be/u0DwvFu5Nbw

【鮭川歌舞伎土舞台特別公演】
日にち:令和4年6月12日(日)12時開演
場 所:鮭川村京塚地区愛宕神社 土舞台
問合せ:鮭川歌舞伎土舞台特別公演実行委員会(鮭川村役場内)0233-55-2111
※申込は締め切りいたしました
詳細はこちら

木挽町広場は“日本物産展”会場!

木挽町広場の催し物について、詳しくはこちらをご覧ください


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問合せ先

牧野健太郎(まきの けんたろう)

公益社団法人日本ユネスコ協会連盟 評議委員、明治大学・明治大学リバティーアカデミー・NHK文化センター調師。 教育番組・アニメーション番組の制作やイベントなどのプロデューサー。 2003年よりボストン美術館との共同制作、浮世絵デジタル化プロジェクトの日本側責任者。