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観光しませう!

バックナンバー
2022.06掲載
神奈川県 横浜
六月大歌舞伎第三部『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の舞台、横浜を訪れました。

岩亀楼(がんきろう)の石灯籠

黒船来航をきっかけに歴史の表舞台となった横浜。1859年の開港にともない、横浜公園一帯が埋め立てられ、港崎(みよざき)町と命名され、その中に岩亀楼などが開業し国際社交場として栄えました。写真下段右の石灯籠は、妙音寺(南区三春台)から横浜市に寄贈されたもので、石に刻んである「岩亀楼」の文字(写真下段右)から、岩亀楼にちなむものであることがわかります。岩亀楼は、はじめ港崎町に建てられ、慶應2年の大火で類焼、以後二転三転して明治16年(1883年)永楽町に移り、明治17年に廃業しました。
この石灯籠は明治初年頃のものと思われますが、いつ妙音寺に移されたかは判明していないとの事です。震災、戦災によって多くの文明開化期の遺物を失った横浜にとは貴重な文化財のひとつといわれています。

写真
上段:物語の舞台、横浜
下段左:岩亀楼の石灯籠
下段右:岩亀楼の文字

岩亀稲荷(がんきいなり)

物語の引き金となる遊女・亀遊は、幕末に実在したと言われています。さらに、亀遊が身を置く岩亀楼は、港崎遊廓に実在した遊女屋で、随一の勢力を誇った大店だったとの事です。
遊女達が病に倒れた時、静養する寮が岩亀横丁にあり、信仰していたお稲荷様が岩亀楼の寮内にあったので岩亀稲荷と呼ばれ現在も信仰が受け継がれています。よほど気を付けないと見過ごしてしまいそうな間口90センチほどの細い路地の奥に岩亀稲荷が鎮座しています。「露をだにいとふ倭(やまと)の女郎花(おみなえし)ふるあめりかに袖はぬらさじ」の木札(写真)も掲示されていました。このお稲荷様にお願いするとそのご婦人の病いが治ると言い伝えられています。

幕末の吹き荒れる尊王攘夷の嵐の中、横浜の歴史を陰から支えた遊女たちがいる、そんな思いを胸に、お参りされてみてはいかがでしょうか。

写真
上段:岩亀稲荷 門前
下段左:岩亀稲荷
下段右:木札

2022.05掲載
神奈川県 江の島
五月大歌舞伎第三部『弁天娘女男白浪』(べんてんむすめおのしらなみ)の舞台、藤沢市江の島を訪れました。

旧岩本院(岩本楼)

江の島といえば、神奈川県のみならず全国的にも名が知れた観光地ですが、江の島の歴史の中で、貴重な役割を果たしてきたのが岩本院です。

中世、江の島には弁才天を本尊とした、「岩屋本宮」・「上之宮」(現中津宮(なかつのみや))・「下之宮」(現辺津宮(へつのみや))の三宮があり、それぞれ岩本坊・上之坊・下之坊の各別当寺が管理にあたっていました。
この三坊の中で「岩本坊」は、「岩屋本宮」及び、弁才天の御旅所であった「奥津宮」の別当寺で、江戸時代に、院号の使用を許され「岩本院」と称し、江の島全体の総別当でした。

江戸時代には、文学や芸能にもとりあげられ、中でも今月上演される「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)(通称「白浪五人男」)に出てくる「弁天小僧菊之助」は、「岩本院の稚児」がモデルといわれています。
現在は老舗旅館である岩本楼。館内には「岩本院資料館」もあり今回は特別に見せていただきました。元禄十年作の岩本院看板(写真中段右)は岩本院正面玄関に掲げられていたものです。「青砥稿花紅彩画(通称「白浪五人男」)が上演される劇場には時々公開したとのことです。

写真
上段:湘南の景勝地、江の島
中段左:岩本楼
中段右:岩本院看板
下段左:旧岩本院

恵比寿屋

そして、岩本楼のすぐ近くには「恵比寿屋」という旅館もあります。この旅館にも、岩本楼と同様に資料館があります。1Fロビーには、明治三十五年(1902年)十一月歌舞伎座公演の五代目尾上菊五郎の絵看板『弁天小僧菊之助』が掲げられています。(七代目鳥居清忠筆)

現代もなお人気の観光地である江の島は、江戸時代から霊場かつ行楽地として多くの参詣客を集めるとともに、能楽や歌舞伎などさまざまな芸能の舞台となり、また浮世絵にも数多く描かれてきました。歌舞伎と縁の深い江の島は長い歴史の中で折り重なり、自然と歴史、海辺や街並みなど不思議な魅力を持った江の島の奥深さを再認識した一日でした。

写真
上段:恵比寿屋
下段左:弁天小僧菊之助絵看板

2022.04掲載
四月大歌舞伎第一部『天一坊大岡政談』(てんいちぼうおおおかせいだん)の舞台、有楽町界隈を訪れました。南町奉行所跡

江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名で南北両奉行に分かれ月番で交代に執務していました。名奉行として知られる大岡越前守忠相(1677-1751)は、徳川吉宗が江戸幕府八代将軍に就任した翌年の享保2年(1717)に江戸町奉行に起用され、以後約20年間、元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここ(写真上段)で執務をしていました。

南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成17年の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、穴蔵(写真2段目左)などが発見されました。この穴蔵の構造は、厚い板材を舟釘(ふねくぎ)で留め、隠し釘となるように端材を埋め、板材の間には槇肌(まきはだ・木の皮)を詰めて防水処理をしています。また、壁板の一辺には水抜き穴があき、そこから竹管が延びて桶に水が溜まる構造になっています。また、南町奉行所内に掘られた地下室では、「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた木札(写真2段目右)も出土しました。これは伊勢神宮の神官が大岡忠相の家臣に宛てたものです。  大岡越前守忠相は、宝暦元年(1751)12月、半年前に没した吉宗の後を追うように亡くなりました。(写真4段目左)は、晩年に忠相の上屋敷が置かれた場所です。現在、跡地は有楽町駅から約1.2kmほど離れた霞が関の弁護士会館になっています。

写真上段:南町奉行所跡の碑と再現された石組下水溝
写真2段目左:有楽町界隈(安政3年・1856)
写真2段目右:有楽町界隈(平成15年・2003)
写真3段目左:南町奉行所跡から発見された穴蔵
写真3段目右:出土された木札
写真4段目左:大岡越前守忠相 屋敷跡

2022.03掲載
二月大歌舞伎第三部『鼠小僧治郎吉』(ねずみこぞうじろきち)の舞台、両国の回向院を訪れました。

回向院(えこういん)は、東京都墨田区の、JR総武本線両国駅より南へ徒歩3分、都営大江戸線の両国駅より南西へ徒歩10分の地にある浄土宗寺院です。
江戸前期の明暦3年(1657年)の「明暦の大火」の犠牲者を弔うため、四代将軍徳川家綱が同年に創建されました。
有縁・無縁、人、動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、大相撲との深い関係を示す力塚、水子供養の発祥である水子塚、願い事が成就した際に塩を供える塩地蔵、馬・猫・犬ほか各種動物の慰霊碑など、庶民の崇敬が篤かったことが示されるものが境内に多数あります。
回向院の境内には、義賊といわれた鼠小僧次郎吉(俗名・中村次郎吉)の墓があります。
長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、いつの頃からか鼠小僧次郎吉の墓石のかけらを持っていると、「賭け事に勝つ」「運がつく」などといわれるようになりました。そのため墓石を欠き取る人が後を絶たず、現在は墓前に欠き取り用の墓石が置かれています。

受験生にとっては「するりと入れる」ご利益があると、合格を願って墓石のかけらを持っていかれる方が多いそうです。ちなみに、削ったかけらを納められる巾着型のお守りも寺務所でお求めできます。

写真上段左:回向院山門
写真上段右:鼠小僧供養墓1
写真2段目左:鼠小僧供養墓2
写真2段目右:欠き石
写真3段目左:回向院看板
写真3段目右:欠き石を削ったらこの中へ

2022.02掲載
二月大歌舞伎第一部『元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿』(げんろくちゅうしんぐら)の舞台、浜離宮庭園を訪れました。

浜離宮恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)は、東京都中央区にある都立庭園です。旧浜離宮庭園として特別名勝・特別史跡に指定されています。

寛永年間(1624年-1644年)までは、葦などが茂った湿原で、将軍家の鷹場でした。1654年(承応3年)に甲府藩主の徳川綱重がこの地を拝領し、海を埋め立てて別邸を建てました。その後、徳川綱重の嫡男・徳川綱豊(とくがわつなとよ=3代将軍・徳川家光の孫)が6代将軍・徳川家宣になったのを契機に将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められました。

潮入の池の岸と中島を結ぶ、お伝い橋。中島には「中島の御茶屋」があり、水の面に映える橋と御茶屋の姿は、風趣に富んでいます。かつては、眺めもよく、海のかなたに房総を望み、夕涼みや月見に使われたようです。現在の御茶屋は、昭和58年に再建され、抹茶を楽しむことができます。

「御茶屋」は、庭園の景色を構成するだけでなく、歴代の将軍たちの園遊の際の食事や休憩、来賓をもてなしたり、調度品を鑑賞するなどして過ごすほか、鷹狩りの際の休憩場所としても使用していました。

これらの多くは焼失してしまいましたが、11代将軍家斉の時代に建てられた「松の御茶屋」は平成22年(2010年)、「燕の御茶屋」は平成27年(2015年)、「鷹の御茶屋」は平成30年(2018年)にそれぞれ史資料に基づき忠実に復元され、往時をしのばせる景色がよみがえりました。

写真上段左:特別名勝および特別史跡 旧浜離宮庭園の石碑
写真上段右:中島の御茶屋看板
写真2段目右:燕の御茶屋
写真2段目左:松の御茶屋
写真3段目右:中島の御茶屋
写真3段目左:鷹の御茶屋

当サイト「歌舞伎座楽市」では、ネットショップでご購入できる浜離宮限定のお土産品をご用意いたしました。将軍瓦せんべい、将軍おかき、和三盆など期間限定の販売でございますのでぜひご利用ください。
※販売は終了しております。

そして、『元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿』上演を記念して、スペシャル弁当「再現 御浜御殿 将軍弁当」をご用意いたしました。江戸時代に浜離宮にて将軍が家臣を招いた際に出した献立を現代風に再現した、将軍弁当です。こちらは予約制ですので、ぜひご利用くださいませ。
※販売は終了しております。

写真: 再現 御浜御殿 将軍弁当

2021.12-2022.01掲載
中津川の秋を満喫!地歌舞伎特別公演を観劇してきました。

新型コロナウイルス感染症の拡大防止の観点から、延期や中止されていた岐阜県の地歌舞伎ですが、中津川市では、“岐阜の宝もの”(県認定)の『地歌舞伎』の特別公演を11月3日(水・祝)、21日(日)に市指定有形文化財「常盤座」で実施されました。

地歌舞伎は、江戸時代から江戸や上方で盛んであった歌舞伎がやがて中山道の街道沿いなど、地方でも上演されるようになり全国各地に広がります。そこで、プロの役者に憧れた地方の人々は、芝居を見るだけでは飽き足らず、自ら演じて楽しむようになりました。これが『地歌舞伎』の始まりとのことです。岐阜県内にはいまも30を超える保存会があり、全国で最も盛んな土地といえます。

会場となる常盤座は、入母屋、妻入りの形式で間口17.1m、奥行き26.9m、座席数500と立派なもので、村芝居が盛んだったこの地方の娯楽の殿堂として賑わった当時を偲ぶことができます。舞台は、上手袖に太夫座を常設し、花道、回り舞台を備えた明治時代の劇場形式を今に伝えています。

終戦間際に軍の倉庫として使用され、一時は舞台機能が失われましたがその後何度も改修され、平成8年(1996年)には場内全面改修工事と共に、回り舞台も復元されました。

現在は地元の歌舞伎保存会によって、毎年素人歌舞伎や子供歌舞伎が上演され賑わいを見せています。

このたび、弊社は新しく起ち上げたWEBサイト「歌舞伎座楽市」の中で、全国の地芝居・地歌舞伎のページで岐阜県の地歌舞伎を紹介しています。日本で一番熱く活動をしている岐阜県地歌舞伎を応援する為、昨年から岐阜県をはじめとする行政関係や地域振興イベントを中心に手掛けている日本イベント企画(株)と取り組みをはじめています。コロナ禍で演劇界にも大打撃を受けるなか、「日本を元気にできる芸能の代表」として弊社、歌舞伎座サービスも、岐阜県の地芝居・地歌舞伎の皆さまや芝居小屋と、『共に頑張りましょう!』と応援プロジェクトのひとつとして、地歌舞伎の公演会場で歌舞伎グッズの販売を開催しました。地歌舞伎と共に頑張る・応援している「ぎふ地歌舞伎応援」千社札シールを商品に貼付して販売し、利益の一部を地歌舞伎保存会へ役立ててもらうことになりました。

開演前の常盤座の前の特設テントには、歌舞伎座から持ち込んだ手拭い・お菓子などのお土産品がずらりと並び、これから上演される地歌舞伎公演を盛り立てます。観劇にいらっしゃったお客様もしばしお買い物を楽しんだ様子です。はためく幟りの奥の正面玄関をくぐり、もぎりへ。手渡されたビニール袋には何やら意図がありそうなものが入っています。

4月に訪れた際は、休館中とあってひっそりとしていた常盤座の小屋は、2階までお客様が入り提灯に明かりが灯ると江戸時代の芝居小屋へタイムスリップした感覚です。本来であれば、地歌舞伎の醍醐味とも言える、“おひねり”や“大向こう”も、コロナの影響でお断りしているとのこと、なんとも残念!とがっくりしていると「withコロナの新しい手法」とアナウンス。ふと脇に置いてある先ほどのビニール袋を見ると、中から「待ってました!」「日本一!」と刷られた手拭いとおひねりポチ袋が入っていました。大声を掛けずに手拭いを掲げて盛り上げるという新しい観劇スタイルに驚きました。

お芝居は「青砥稿花紅彩画」通称「白浪五人男」で知られた演目です。演じるは地域にお住まいの方ばかり。ベテラン・新人の方、中学生の女の子まで様々。南郷力丸は元警察官の方が演じられていて、“捕り手”が“盗賊”の役というのが何とも滑稽です。中津川では、子どもの頃から大人の歌舞伎を真似て体に染み込んでいくといいます。演者がセリフを忘れると、なんと最前列のお客さんがセリフを教えてあげていました!これには会場に笑いが起こりました。舞台と客席が一体となって楽しむのが、大歌舞伎にはない地歌舞伎ならではの魅力です。

公演後には俳優さんとの記念撮影で小道具を持って役者気分も味わえます。また、回り舞台に座って回ってみたり、奈落で実際に回り舞台を手動で回してみたりと、「常盤座」の表舞台・裏舞台見学をお楽しみいただけます。

このコロナ禍でも、伝統をつなぎ、舞台をつくり上げてきた地域の方々の情熱が芝居小屋という空間でひとつになったひとときを感じることができました。


写真上: 中津川市指定重要文化財 常盤座
写真2段目左:お土産コーナー
写真2段目右:地歌舞伎応援千社札
写真3段目左:大向こう手拭い
写真3段目右:掲げて「よっ!日本一!」
写真下左:勢揃い

2021.10掲載
『松竹梅湯島掛額』ゆかりの地を訪ねて

10月第三部で上演される『松竹梅湯島掛額』について、少しご紹介しましょう。

場名に「吉祥院お土砂」とありますが“お土砂”というのは、真言宗の秘法の一つ。
渓流の土砂を洗って祈祷し、それを硬直した屍体にふるかけると、光明真言の功力で柔らかくなると言われています。
固い屍体を柔らかく骨抜きにするところから、お世辞を言って相手を喜ばせることを“お土砂をかける”とも言います。

お芝居に登場する吉祥院は架空のお寺ですが、駒込には「吉祥寺」というお寺があります。ここには、昭和41年に建立された八百屋お七と吉三の「比翼塚」があります。あの世で結ばれることを願ったに二人にあやかって、良縁を祈る方が多いそうです。

白山の「円乗寺(えんじょうじ)」には、お七の供養墓があります。八百屋お七の一家が火事で焼け出された時に避難して、吉三郎と出会ったと伝えられるお寺です。

駒込駅前にある明治6年創業の御菓子司「中里」、「揚最中」が人気です。ごま油で揚げた最中の皮が、パリッと香ばしく、一度食べたら忘れられない食感が魅力です。10月は歌舞伎座「お土産処 木挽町」で販売しています。お土産に是非どうぞ!

※関連ニュース:お土産処「木挽町」のおすすめ品(10月)

写真上: 吉祥寺とお七吉三郎の比翼塚
写真下左:円乗寺のお七の供養墓
写真下右:御菓子司中里の揚最中(右)と南蛮焼(左)

2021.09掲載
鶴屋南北と四谷怪談

九月第三部の『東海道四谷怪談』は四世鶴屋南北の作品です。
四月・六月に上演された『桜姫東文章』、十月第一部の『天竺徳兵衛新噺』も、同じく鶴屋南北の書いたお芝居です。

“大南北(おおなんぼく)”とあがめられたこの鶴屋南北は、“生世話(きぜわ)”という、芝居の世界を生み出したといわれています。この“生世話”とは、普通の町人より、さらに低い階層の、下町のどん底生活を、濡れ場、殺し場、ゆすり場、などをふんだんに盛り込み、ナマナマしく描いたのが特徴で、これらの話は、現代の混沌とした世相にも通じるものが感じられます。

『東海道四谷怪談』の主人公 お岩様は、実在した女性をモデルにしたと伝えられています。
そのお岩様を祀っているのが四谷・左門町にある「於岩稲荷田宮神社」と「陽運寺」。お岩様の眠るお墓は巣鴨「妙行寺」にあります。
お岩様にまつわるお芝居や映画などの関係者は、この三か所を巡り、成功の祈願と興行の安泰をお参りするのが恒例となっているそうです。

写真上:妙行寺とお岩様のお墓
写真下左:於岩稲荷田宮神社
写真下右:陽運寺

2021.08掲載
三遊亭円朝
~台東区谷中「全生庵(ぜんしょうあん)」を訪ねて~

八月花形歌舞伎 第二部では『真景累ヶ淵』(しんけいかさねがふち)が上演されます。
歌舞伎でおなじみの『怪談牡丹燈籠』や『人情噺文七元結』も三遊亭円朝の作によるもので、これらの作品は“円朝もの”とも呼ばれます。

三遊亭円朝(1839-1900)は、幕末から明治にかけて活躍した落語家で、自ら創作した話や講談を「芝居噺」として上演し人気を得ました。
「芝居噺」とは芝居の世話狂言を模して、高座の背景に道具をかざり描かれた絵にあわせた話をするもので、なにかと手間のかかった歌舞伎見物の雰囲気を安直に味わえることから、大いに人気を博したといいます。

そうして生み出された、『真景累ケ淵』『怪談牡丹燈籠』『怪談乳房榎』の“怪談もの”や、『塩原多助一代記』『文七元結』の“伝記もの”等の作品が歌舞伎にも移行されていきます。
後年は扇一本の素話で通したという円朝、その名があまりにも大きく、まるでプロ野球の永久欠番のように、今ではだれも継ごうという人がでない芸名となっています。

円朝は“怪談もの”を書くときに、幽霊のかけ軸を周辺に飾り、筆を執ったといいます。
それらの幽霊の絵は、円朝没後、谷中の全生庵(菩提寺)に納められ、毎年8月円朝の命日8月11日を含む1ヶ月間にわたって開かれる「幽霊画展」の折に一般にも公開されています。

(「幽霊画展」:8月1日~31日(休館日なし)、10時~17時(最終入場16:30)、拝観料は500円)

写真上:三遊亭円朝墓地
写真下左:全生庵 正面

2021.05-07掲載
岐阜の地歌舞伎
江戸時代から続く日本一の地歌舞伎のまち、岐阜県を訪ねました。

全国各地で行われている「地歌舞伎(地芝居)」は、江戸時代に江戸や上方ではやった大歌舞伎に憧れた人たちが、自分たちで演じるようになったのが始まりと言われています。全国200余の団体のうち、岐阜県には30を超える団体が存在します。さらに、県内各地には9棟の芝居小屋が現存しており、中には築100年を超えるものもあります。岐阜県は全国でも有数の地歌舞伎が盛んな地であり、芝居小屋を始め毎年各地で定期公演が開催されています。県内29の団体がリレー公演を行う「清流の国ぎふ 2020 地歌舞伎勢揃い公演」は、新型コロナウイルス感染症の拡大防止の観点から、一時中断していましたが、2021年3月より再開しました。

会場となるぎふ清流文化プラザは、コンサートや映画公演など様々なイベントが数多く行われ、岐阜駅から車で10分ほど。綺麗で近代的な建物です。雨上がりの青空にのぼり旗が天高くはためいておりますます気分が盛り上がります。ロビーにはご当地の名物、朴葉寿司や富有柿のお菓子が並び観劇客の足をとめています。思っていた以上に本格的なのだなと驚いていると幕が開き、大歌舞伎さながらの豪華なセットが現れ、ステージ左側の花道から俳優が登場。俳優さん一人一人が一生懸命ですから、夢中になって見入ってしまいます。美しい所作でとても素人の演技とは思えず、ひきつけられました。

驚いたのは、子どもたちがかなり長いセリフでもしっかり覚えて演じていることです。聞けば小さい時から兄弟や年上の演技を見様見真似で体に染み込んでいくのだとか。
同時解説のガイドも付いており、「この俳優の方は床屋さんです。」「こちらの方は普段は花屋さんです。」との紹介に会場にも笑いが起こります。

また、舞台上では着物がなかなかうまく脱げず手間取るハプニングも起きました。歌舞伎座であればその場が凍り付きそうですが、そんなときでも会場はいたって和やか。それも一興という感じで笑いが起こって終わり。プロもアマも、男も女も、大人も子どももないのです。大歌舞伎と地歌舞伎はこれからの時代、コロナ禍で様変わりしていく世の中でどのようにして生き続け、そして残していけるかの課題が、このコロナ禍でさらに浮き彫りにされた気がしました。

なお、当日の公演の模様は ぎふ清流文化プラザYouTubeチャンネル でもご覧になれます。おうち時間を地歌舞伎で楽しまれるのはいかがでしょうか。
【YouTubeチャンネルURL】
https://www.youtube.com/channel/UCx_NJKW7JOicMjhzfqBC1hQ

写真上:舞台
写真中左:ぎふ清流文化プラザ
写真中右:長良川ホール入口
写真下左:ロビー内
写真下右:ド派手なのぼり旗がお出迎え

2021.04-05掲載
岐阜県恵那市
四月大歌舞伎の第二部『絵本太功記』(えほんたいこうき)の登場人物“武智光秀”(明智光秀)の出生地と言い伝えが残る岐阜県恵那市をご紹介します。

愛された明智光秀

2020年1月からの大河ドラマでも記憶に新しい、明智光秀は織田信長や斎藤道三からの信頼も厚く、家臣や領民から慕われる戦国武将でした。
岐阜県恵那市明智町は、戦乱の世を駆け抜けた戦国武将「明智光秀」の生誕地とされ、光秀に関する伝承や史跡、母である於牧の方の墓所など数多く残り、町民によって今も語り継がれています。
毎年5月3日には光秀まつりが開催され、名将光秀を偲び、勇壮な武将行列が繰り出され、光秀とその母親である於牧(おまき)の方の供養が行われるなど、市民からも親しまれています。

写真上:明智光秀産湯の井戸
明智光秀は、永禄元年(1528年)3月10日、落合砦(土岐明智城・多羅砦)で誕生したといわれています。砦には、光秀の産湯として使われたとされる井戸が現在も残っています。
井戸からは、弥生時代の石器や、焼け焦げた柱材、恵比寿の宝寿等が出土したと言われています。

写真下左:於牧の方の墓所
明智光秀のご母堂、於牧の方(おまきのかた)の墓所。
明智光秀は天正三年、信長の名によって丹波八上城を包囲、波多野兄弟と戦ったが、容易に落ちないので、信長との和睦をすすめ、母於牧の方を人質として出し、兄弟を安土城の信長のもとへ送った。信長はそこで光秀との前言をひるがえし、ただちに波多野兄弟を捕らえ、磔刑にしてしまった。八上城に残った波多野の家臣は光秀の背信を怒り、於牧の方を惨殺してしまったといわれています。

写真下右:光秀供養塔
明知遠山家の菩提寺である龍護寺に、明智光秀の供養塔があります。
光秀に関する碑は、「その悲痛な思いで」ことごとく割れるといった通説どおり、斜めに大きくひび割れが入っています。毎年5月3日には、光秀まつりとあわせて、明智光秀公供養(仏事)が行われています。

四月大歌舞伎の第二部『絵本太功記』(えほんたいこうき)では、明智光秀が織田信長を本能寺で討ってから、羽柴秀吉に敗れ滅ぶまでの数日を題材にしています。江戸時代には歴史上の人物を実名で語ることは避けられていたため、名をもじった人物たちが登場します。
歌舞伎では、全13段あるうちのクライマックス・十段目が主に上演されるようになり、『太功記』の『十段目』ということで『太十(たいじゅう)』とも呼ばれます。

2021.02-03掲載
九州《福岡・佐賀・長崎・大分》

福岡県 天孫降臨の山 英彦山

福岡県北部にそびえる霊峰・英彦山。出羽の羽黒山、熊野の大峰山と並ぶ日本三大修験の山として、古くから厚く信仰され、多くの登山愛好家が訪れます。また、英彦山の麓は、梅野下風・近松保蔵合作「彦山権現誓助剣(ひこさんごんげんちかいのすけだち)」に毛谷村として登場します。
英彦山信仰において、大きな拠点となるのが「英彦山神宮」です。「天孫降臨」で知られる太陽神 天照大御神の子・天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が主祭神で、中岳山頂の上宮を本殿とし、中腹にある奉幣殿で年間祭祀や祈願が行われています。神々しい雰囲気で、心身が清まる感じがします。
800年の伝統を誇る「英彦山がらがら」は、素焼きならではの乾いた音色が特徴の土鈴で、家の玄関に魔除けとして置くなど、人々の生活を守る存在として親しまれています。

写真
上段:英彦山神宮銅鳥居(かねのとりい)
中段左:奉幣殿
中段右:参道
下段左:中岳山頂・上宮
下段右:英彦山がらがら

佐賀県 鹿島市 日本酒ファンが集うまち

鹿島市は佐賀県の西南部に位置し、東には有明海が広がり、西は多良岳山系に囲まれ自然環境に恵まれた場所です。日本三大稲荷「祐徳稲荷神社」には国内外から年間300万人以上の参拝者が訪れる人気の神社がある事でも知られていますが、ここ数年は「日本酒のまち」として全国的に注目を集めています。市内には現在も6つの造り酒屋があり、毎年3月には合同酒蔵開きである「鹿島酒蔵ツーリズム」が開催され、2019年には約10万人の日本酒ファンが訪れました。その他干潟で泥んこになって行う「鹿島ガタリンピック」、「ラムサール条約湿地」に登録された「肥前鹿島干潟」等の有明海の自然にも是非触れて頂ければと思います。

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上段:祐徳稲荷神社
中段左:道の駅鹿島干潟体験
中段右:肥前浜宿

長崎県 長崎の2つの世界遺産

美しい自然と豊富な観光資源に恵まれた長崎県。 多くの離島を有し、県の総面積の45.5%は「しま」で、海岸線の長さは北海道に次いで全国2位です。
そんな長崎県には過去から現在、そして未来へ引き継いでいくべき二つの世界文化遺産があります。一つは、2015年に登録された「明治日本の産業革命遺産」。もう一つは、2018年に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」です。どちらも長崎からはじまった日本の歴史の1ページ。壮大なドラマと神秘的なかおりが感動を呼び起こします。このほか、日本遺産の第一号に認定された「国境の島 壱岐・対馬・五鳥」や世界新三大夜景にも数えられる長崎市の夜景、 海や山の豊かなめぐみなど、長崎県には魅力がいっぱい詰まっています。ぜひ長崎県にお越しください。

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上段:大浦天主堂(長崎市)
中段左:軍艦島(端島)(長崎市)
中段右:稲佐山からの夜景(長崎市)
下段左:高浜海水浴場(五島市)
下段右:白嶽(対馬市)

大分県 坐来大分

「坐来大分」は銀座にある大分県公式アンテナショップ型レストランです。 『坐来』とは『いながらにして』という意味で、東京銀座にいながらにして、大分に憶いを馳せる、という思いが込められています。
「坐来大分」では、大分の海と山から届いた季節の食材をふんだんに使用した彩り豊かな月替わりのコースを召し上がっていただけます。
また、豊の国のおいしさを個室で味わっていただける昼膳や、テイクアウトできる大分の「おいしい」を詰め込んだお弁当・折詰をご準備しております。いずれも、前日までの要予約となっております。
さらに、エントランス横では、柚子胡椒や乾しいたけ、銘菓などこだわりの品々をセレクトして販売しています。
坐来大分に隣接する「おおいた情報館」では、大分県内の観光パンフレットをご準備しておりますので、旅行先の情報収集やご相談にお気軽にご利用ください。

坐来大分(ZARAI OITA)
東京都中央区銀座2-2-2 ヒューリック西銀座ビル8F
ランチ  12:00~14:00(L.O. 13:30)
ディナー  17:00~22:00(L.O. 21:00)
ギャラリー(物販) 11:30~
店休日 日曜日、祝日、第1土曜日
TEL 03-3563-0322
※緊急事態宣言の発令に伴い、2月28日まで臨時休業とさせていただきます。

2021.01-02掲載
九州《熊本・宮崎・鹿児島》

熊本県山鹿市 八千代座

明治43年に建築された八千代座は、昭和63年に国の重要文化財に指定された現役の芝居小屋です。
柱の上の小屋組みには洋式工法が採用され、公演のない日は見学も可能です。ドイツ製のレールを使った廻り舞台や花道など、江戸時代の歌舞伎小屋の様式を今に伝えています。
これまで、五代目坂東玉三郎さんや十一代目市川海老蔵さんの歌舞伎公演も開催され、注目を集めました。
八千代座の斜め向かいには、明治20年に建築された「夢小蔵」があり、八千代座で使われていた衣装や小道具が展示されています。
また、山鹿の奥座敷、「平山温泉郷」では、「美肌の湯」と呼ばれる化粧美容液のような、ぬるぬるとろとろの柔らかなお湯が溢れています。

写真
上段:八千代座外観
中段左:八千代座外観
中段右:内観
下段:平山温泉

宮崎県 日向神話旅

日本には八百万の神々が住まうといわれます。太陽や雨、風、奇石、巨木、あるいは獣、あるいは魚など、ありとあらゆる自然のものに、人々は神を見出だしてきました。国学者・本居宣長は日本人にとっての神を「可畏きもの」と呼んでいます。恩恵を受け敬う存在であると同時に、畏れるべき存在。そうした神の存在を現代の私たちが日常の中で感じる瞬間は、どれくらいありましょう。

「古事記」と「日本書紀」には、国生み・神生み、天岩戸開き、天孫降臨、海幸山幸、そして神武東征など、数多くの神話が描かれています。これらの神話が伝わる宮崎には、今もこうした「神さま」をすぐそばに感じる場所が点在しています。宮崎の神話ゆかりの地を訪れる“日向神話旅”をぜひお楽しみください。

鹿児島県アンテナショップ
かごしま遊楽館

有楽町・日比谷にある、「かごしま遊楽館」は、首都圏と鹿児島を結ぶ拠点として鹿児島県が設置しており、鹿児島の特産品や農産物、観光情報などの発信を行っています。
平成7年5月30日にオープン。令和2年5月に25周年を迎えました。

1階では、焼酎、さつまあげ、さつまいもなどの食品販売を行っているほか、観光案内コーナーも設置しています。
2階はレストランとなっており、名物の黒豚しゃぶしゃぶをそばつゆ仕立てでさっぱり食べられます。ランチも大変人気があります。
3階では、薩摩焼、薩摩切子、大島紬、屋久杉加工品などの展示販売を行っています。

ぜひご来館ください。職員一同心よりお待ちしております。

写真
上段:かごしま遊楽館外観
中段左:観光案内コーナー
中段右:工芸品販売店内
下段左:食品販売店内
下段右:人気のしゃぶしゃぶ!

かごしま遊楽館
東京都千代田区有楽町1-6-4 千代田ビル1~3階


03-3580-8821(1階食品販売)
03-3506-9174(1階観光案内コーナー)
03-3501-3123(2階レストラン)
03-3506-9171(3階工芸品展示・販売)

2020.12掲載
島根県 出雲市・大田市
十二月大歌舞伎の第四部『日本振袖始』(にほんふりそではじめ)の“島根県の出雲市と大田市”を訪ねました。

出雲大社

出雲大社は「縁結びの神様」として、また「因幡のしろうさぎ神話」で有名な、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)をお祀りしています。
大国主大神は、幾多の困難を越えて国土を開拓された国造りの神様であり、さらにその国土を天照大御神(あまてらすおおみかみ)に譲った国譲り神話でも知られています。出雲大社は、国譲りの代償として造営されたのが起源とされます。
境内には、大国主大神とスセリヒメ神が出雲大社にお鎮まりになられた由緒を紹介する「縁結びの碑」があります。二柱の神は様々な試練を克服して愛を育み、夫婦の契りの盃を交わして永遠のご縁を結ばれました。「縁結びの神様」と呼ばれる由縁はここにあります。縁結びは男女の縁だけでなく、人々を取り巻くあらゆる繋がりのご縁を結ぶものとされ、全国から多くの人々が良縁を求めて出雲大社を訪れます。

写真
上段:神楽殿(大注連縄)
中段左:神楽殿(大注連縄)
中段右:御本殿
下段左:御本殿・八足門

出雲阿国の墓

日本を代表する伝統芸能・歌舞伎の始祖として知られている出雲阿国は、出雲大社の巫女であったと伝えられています。
天正の頃、出雲大社本殿の修復勧進のため京都へ上り、世にいう歌舞伎踊りを創始しました。
出雲阿国のお墓は出雲大社から稲佐浜へ向かう途中、山根の太鼓原の石段を登っていくと中村家の墓があり、出雲阿国の墓は、特別に石棚で囲った平たい自然石で作られています。当サイトの“買いたいものはここにある”の阿国かまぼこは、出雲阿国の後裔である当家33代目中村国市が創業した、大社町で歴史ある蒲鉾店(中村蒲鉾店)のかまぼこです。今回の訪問によって、中村様とめぐり会うことができました。

石見神楽(いわみかぐら)

『日本振袖始』は近松門左衛門が神話を基にして人形浄瑠璃のために創ったお芝居です。このお芝居のなかに、素盞鳴尊(すさのおのみこと)が高熱に苦しむ稲田姫(いなだひめ)を、着物のワキの下を切り開いて熱を発散させ、鎮めるくだりがあり、それこそが着物の身ごろのワキを明けた、いわゆる身八つ口(みやつくち)を持つ「振袖」の始まりである、と説かれていることから、このタイトルがつけられたともいわれています。
この伝説は現在の島根県大田市の石見地方を代表する郷土芸能です。今回の訪問では大田市大代町の大江髙山神楽社中の公演「塵輪じんりん」「大蛇おろち」を観劇しました。
独特の哀愁あふれる笛の音、活気溢れる太鼓囃子に合わせて、金糸銀糸を織り込んだ豪華絢爛な衣裳と表情豊かな面を身につけて舞う石見神楽は、初めて観る人にも明快で、自然と目の前で繰り広げられる神話の世界に誘われます。
島根県の訪問を終え、ここには国づくりの神様を祀る出雲大社や、歌舞伎の創始者ゆかりの地、そして神々が集まる聖地など価値あるところがたくさんあることに改めて気付かされました。

2020.11掲載
山梨県早川町(日本一人口の少ない町)
早川町は、山梨県の南西部に位置し、南アルプスの山々に囲まれた自然豊かな町です。
町名の由来となっている町の中央を流れる早川を中心に、大小の滝や渓谷が、美しい風景を作り出しています。
東西15.5km・南北に38km、369.96km²の広大な面積を有し、町土の96%を森林が占めています。
新緑や紅葉の時期は特に美しく、周囲を囲む山々の四季折々の変化は鮮やかで、見るものの目を楽しませてくれます。

赤沢宿

赤沢は中世のころから聖地身延山と霊場七面山とを結ぶ参道の宿場として知られてきました。
江戸初期、徳川家康の側室お万の方の功績により、七面山の女人禁制が解かれ、同・中期頃になり山岳信仰の富士講や身延講などが盛んになるにつれ、七面山への参拝者が急増し赤沢の旅籠、強力、駕籠人足を利用する人たちも多く、宿場として活気があり、大正から昭和期にかけて身延線の開通とともに参詣客も急増し、赤沢宿も隆盛をきわめたが、迂回道路の整備や交通の便がよくなるに従い、昭和30年代ころより宿を利用する者は激減しています。 集落にはこの往時の隆盛の過程を示す伝統的建造物や民具が多く、保存状態も良く町並や参道、敷地の形態、石畳、古道、石段など周囲の山々と良く調和し、歴史的自然的景観を今もよく残っております。昔の歴史景観を歩いてるような風情があります。 平成5年に国の重要伝統的建造物群保存地区として認定されました。

奈良田

奈良田は、孝謙天皇にまつわる「奈良田の七不思議」が伝わる秘境の地。
奈良の都で僧道鏡と恋仲になられ、何時しか婦人病にかかられた。病気平癒を神に祈願されると一夜夢に、甲斐の国湯島の郷に、霊験あらたかな温泉があるので、奈良田の郷へ遷居するがよいとのお告げがあったので、供奉の者七、八人と供に、天平宝字二年五月、奈良田にお着きになり、王平の地に仮の宮殿を造られ、温泉に入浴されると旬日を経ずして、病は快癒されたが、都が穏やかになるまでの間八年を奈良田に過ごされ、天平神護元年還幸になられた。奈良王様(孝謙天皇)が奈良田に遷居された八年間、奈良王 様が都へお帰りになった後も村人達は奈良王様のお住まいを奈良王神社として奉り、様々な伝説がありこれを【奈良田の七不思議】として今でも語り継がれている。 【七不思議の湯 白根館】源泉100%掛流しのアルカリ性硫黄泉、透明、グリーン、白濁と変化する神秘的な温泉は、手を入れた瞬間に思わず微笑んでしまうほど、とろんとろんの美肌の湯。 【町営 奈良田の里温泉 女帝の湯】ぬるぬるとした肌触りが特徴の美人の湯。源泉かけ流しでぬるめの泉質と、窓からの奈良田湖の眺めが人気です。

2020.10掲載
神奈川県鎌倉市・鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮

古都・鎌倉の中心部に位置する鶴岡八幡宮。その歴史は康平6年(1063年)、源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝公は、治承4年(1180)鎌倉に入るや直ちに御神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷しし、 建久2年(1191)には鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心としました。

写真上)太鼓橋から本宮を望む 入ってすぐに目に入るのが「源氏池」と「平家池」。そこに架かる太鼓橋
写真中左)三ノ鳥居 境内への入口
写真中右)舞殿とその上に本宮 参道をまっすぐ歩くと、見えてくるのが写真手前の舞殿。こちらは源義経の愛妾であった静御前が義経を想う舞を納めたとされる廻廊跡に建っており、現在も「鎌倉まつり」ではそれにちなんだ「静の舞」が行われます。
鶴岡八幡宮をこの地へ遷した源頼朝は、平安京を手本として町づくりを行い、その際に朱雀大路になぞらえて建設された若宮大路です。段葛(だんかずら)と呼ばれる参道から由比ヶ浜までまっすぐに続く道は美しく、鶴岡八幡宮が鎌倉の中心的な存在の一つであることが実感できます。
写真下左)本宮の楼門 舞殿の向こう側、大石段を上った先にあるのが本宮の楼門。扁額に記された八幡宮の「八」は鳩の向き合う形を表しています。これは八幡神の使いが鳩であることにちなんだもの。本宮は文政11年(1828年)に江戸幕府によって造られたもので、漆の朱に極彩色の彫刻が華麗な印象です。
写真下右)小町通り 参道のある若宮大路と並行に走る商店街です。鎌倉名物しらす丼や鎌倉グルメが盛りだくさん。お土産探しにも便利です。

2020.09掲載
神奈川県小田原市・下曽我

城前寺(じょうぜんじ)
~曽我兄弟の菩提寺

城前寺は、1193年(建久4年)、富士裾野で父の仇工藤祐経を討った曽我兄弟の菩提寺。
曽我兄弟の叔父宇佐美禅師が兄弟の菩提を弔うために庵を結んだのがはじまりとされます。
曽我城の大手門がこの辺りだったことから、城前寺となりました。
源頼朝が、1193年(建久4年)に催した富士裾野の巻狩りで、曽我兄弟による仇討ち事件が起こり、曽我十郎祐成と五郎時致兄弟は、父の仇である工藤祐経を見事に討ちとった(5月28日、雷鳴が響き渡る夜のことです)。
曽我氏の館(曽我城)があったとされる地には、城前寺があり、本堂裏手には、兄弟の墓といわれる五輪塔があります。

写真中左)曽我兄弟は幼い頃、工藤祐経によって父の河津祐通(祐泰)を殺され、母の再婚相手曽我祐信のもとに預けられました。
写真中右)曽我兄弟の墓
写真下左)2020年7月30日~8月20日頃まで曽我梅林一帯にて「土用干し」が見られます。ちなみに土用干しとは、「6月頃に収穫・塩漬けした梅漬けを3日間日干し・夜干しすること」です。旨味を引き出すためにとても大事な作業です。1年間で今しか見られない光景です。

2020.09掲載
茨城県常総市・水海道

法蔵寺(ほうぞうじ)~累(かさね)の墓

法蔵寺は「累」の墓所として全国的に知られています。累のものがたりは、江戸時代初期、慶長17年から寛文12年までの60年にわたって繰り広げられた、親が子を、夫が妻を殺害にいたる男女の心のすれ違いに因果が絡む陰惨は出来事をいいます。
この下総羽生村(今の茨城県常総市)に伝わる累伝説をもとに、事件から150年後、「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」など歌舞伎等で上演されるようになって広く世に知られるようになりました。
累一族の墓には、中央に二基の仏像を彫った碑があります。左側が累の墓、右側が助、累の墓の左がきくの墓とされます。

2020.08掲載
奈良県 吉野町

狐忠信の碑

時代を越えてさまざまな舞台の中心となった“奈良県・吉野”。
『義経千本桜』の主人公のひとり“狐忠信”の碑があると知り吉野山へ向かいました。
“狐忠信”の正体は、静御前の持つ“初音の鼓”の皮に使われた狐の子。
母を慕うあまり、義経四天王の一人、佐藤忠信に化けて、静とともに旅をしていました。
その狐をしのぶ碑は脳天大神に向かう参道にあります。
蔵王堂横の階段を降りること445段、「狐忠信霊」と彫られた石碑がひっそりと建っていました。
碑の後ろの崖から、今にも狐が“ひょっこり”と出てきそうです。

2020.08掲載
千葉県 木更津市

与三郎の供養墓・こうもり安の墓

「切られ与三」と異名をとった与三郎のお墓が、ゆかりの地・木更津の光明寺(こうみょうじ)に建てられています。
『与話情浮名横櫛』 は運命的な出会いをした与三郎とお富の変転を描いた「世話物」の代表作。
「しがねえ恋が情けの仇」から始まる名ぜりふは聞きどころです。
歩いてすぐの選擇寺(せんちゃくじ)には、相棒の「こうもり安」のお墓もあります。
劇中では、すっきりした与三郎に対して、少々野暮な雰囲気の「蝙蝠の安五郎」ですが、実際はなかなかの男ぶり、天性の美声で花柳界の寵児と言われるほどの人物だったとか。

2020.07掲載
島根県 石見

石見神楽(いわみかぐら)

島根県西部(石見地域)に伝承される神楽のひとつで、島根県大田市の石見地方を代表する郷土芸能で、演目は30を超えます。
その年の豊作・豊漁・無病息災を祈願し、神々に捧げる儀式として古くから舞われてきました。
また、歌舞伎の演目でヤマタノオロチで知られる『日本振袖始』(にほんふりそではじめ)として平成26(2014)年3月に歌舞伎座の柿葺落興行の最後を飾りました。
現在も石見地域のお祭りやイベントには欠かせない伝統芸能として、世代を問わず人々の生活に息づいています。そのような姿から、日本遺産に認定されました。

※日本遺産とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産」として文化庁が認定する制度です。

2020.07掲載
島根県 太田市

大田市の一日漁(いちにちりょう)

一般的な底引き船は、出漁すると3日から1週間帰港しませんが、大田市の一日漁は「早朝に出港し、近海で漁を行い、その日の夕方に水揚げを行う」漁の形態で鮮度は抜群です。
水揚げされた魚は夕競りにかけられ、今では北陸地方の一部と、ここ島根県大田市だけに残る希少な漁形態になりました。