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江戸両国すずみの図(5枚続のうち2枚)
歌川豊国画 文化年間 国立国会図書館所蔵
錦絵の解説によると、右下の角力取姿は三世坂東三津五郎、左下の順礼姿は助高屋高助の似顔とあります。
 
 酷暑つづきの毎日で、美味よりも涼しさに心が惹かれ、美味探訪が納涼探訪となり、前回に続いて両国橋の納涼をとり上げました。
 現在も人気のある隅田川の花火は万治年間(1658〜61)に始まったといわれ、初めは手に持って打ち上げる簡単なものでしたが、享保18年(1733)5月28日(旧暦)の川開きの夜に、鍵屋によって初めて本格的な大花火が打ち上げられました。

 
 『守貞謾稿』(1853)には、5月28日浅草川(隅田川)川開きの頃に、「今夜大花火ありて、後、納涼中、両三回また大花火あり。その費は、江戸中、船宿および両国辺茶店・食店よりこれを募るなり。納涼は専ら屋根舟に乗じ、浅草川を逍遙し、また両国橋下につなぎ涼むを、橋間(はしま)にすずむといふ。大花火なき夜は、遊客の需(もとめ)に応じて、金一分以上これを焚く。」
 このように納涼期間中大花火は2、3回あり、その費用は船宿や両国辺の茶店や飲食店が出しており、大花火のない夜は納涼船の客が金1分(現在の約23000円くらい)程を出して打ち上げさせていました。
 電力による照明のなかった江戸の空は星も多く、花火も現在よりはるかに美しく見えたことでしょう。芭蕉の句に「このあたり目にみゆるもの皆涼し」というのがあります。
 『東都歳時記』(1838)にも両国の夕涼について「鍵屋玉屋の花火は今にかはらず。又小舟に乗じて果物など商ふを、俗にうろうろ船といふ」とあり、納涼船をめがけて、でんがく・鮨・天ぷら・酒・餅・饅頭・ひや水などを売るうろうろ船も多かったようです。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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