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人物は「升鯉瀧白浪(のぼりこいたきのしらなみ)の浮世伊之助。百川の所在地の浮世小路との関連からの登場。
 復元「東都高名会席盡」共文社刊  48「百川」
 蔀一義氏所蔵
 江戸の外食店の始まりは、明暦の大火(1657)の後に、浅草金龍山待乳山聖天(まっちやましょうてん)の門前の茶店で、奈良茶と名付けて、茶飯に豆腐汁、煮豆などを添えて客に供したのが最初といわれています。江戸の発展と共に外食店は多くなり、宝暦年間(1751-64)からは、高級な料理屋の数も多くなりました。
 
 三都(江戸・京都・大坂)の名物を記した『富貴地座位(ふうきじざい)』(1777)には、江戸の有名料理店として約20店があげられていますが、百川(ももかわ)もその一つです。
 百川は日本橋室町の浮世小路
(うきよこうじ)にあり、『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』(1830)によると、初めは卓袱(しっぽく)料理の店で、後に会席料理に転向したとあります。
 卓袱料理は江戸時代に伝わった中国料理で、はじめ長崎に伝えられ、京都、大坂にも店が出来ましたが、江戸では流行が長続きしなかったようです。
 卓袱は食卓にかける布の意味で、転じて食卓を指し、卓袱台にのせて供するものを卓袱料理または食卓料理とよび、精進の場合は普茶料理とよびました。
 中国風に卓袱台を数人でかこみ、一つの器から各自で取り分ける食べ方は珍しがられたようですが、中国風料理は当時の人々の嗜好にあわなかったらしく、料理書に残る献立を見ると、かなり日本料理風の内容になっています。現在も長崎には卓袱料理の専門店があります。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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