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 青楼見立七福神
 五渡亭国貞画 文政頃 「たばこと塩の博物館」所蔵
 七福神の信仰は室町時代に始まり、江戸では文化文政(1804〜1830)年間に七福神詣でが流行し始め、参詣のコースもいくつかあったようです。また元禄(1688〜1704)ごろから、七福神が船にのって、金銀や米俵を満載してくる宝船の絵を、正月2日に枕の下に敷いて寝て、よい初夢を願うことも行われていました。
 
 上の絵には「青楼見立七福神」とありますが、青楼とは遊女屋のことで、江戸では吉原遊廓をさします。1月の歌舞伎座では「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」が上演されていますが、その舞台となる吉原は、芝居町と並んで、江戸の食文化にも大きな影響を与えました。
 吉原は元和4年(1618)に幕府公許の遊廓として日本橋葺屋町の辺で営業を始め、明暦3年(1657)に浅草寺裏に移転して新吉原と呼ばれました。上の絵は文政(1818〜30)年間の新吉原で、そのころには遊女屋に仕出しをする専門の料理屋がありました。この料理屋を喜の字屋といい、大きな台に料理を飾りつけ、松などをあしらった、台の物と呼ばれるものを注文に応じてつくりました。
 台の物の価格は1分で1分台と呼ばれ、刺身、煮物、硯蓋(口取り)、焼物の4種、天保(1830〜44)年間には2朱台もできて、煮物と酢の物の2種だったようです。台の物は高価な割に味が良くなかったそうで、遊廓の外からの仕出し料理も利用され、そのほか遊廓の中にはうどん屋、そば屋、うなぎ屋もあり、玉子やすしの行商もありました。なお、遊女たち自身の食事は1日2食で、粗末なものだったといいます。
注1) 七福神は、大黒天・恵比寿・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋尊(ほていそん)・毘沙門天(びしゃもんてん)
注2) 1分(いちぶ)は現在の貨幣価値に換算しておよそ25,000円、2朱はおよそ12,000円。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
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