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両国橋川開きの図
国立国会図書館所蔵
 江戸の両国の川開きの錦絵は、NO.6566113136などで既にとり上げていますが、涼み船は屋根船が多く、屋形船は僅かでした。屋根船は4本柱に低い屋根のある小船で、屋形船は屋根のある家の形をしたものを船上に設けた、屋根船より大きいものをいいます。
 三田村鳶魚
(えんぎょ)の『江戸の春秋』(中公文庫)によると、屋形船は寛文・延宝(1661−81)の頃が全盛期で、天和(1681−84)になると船の大きさに制限が加えられ、宝永3年(1706)には屋形船の数が100艘に制限されています。宝暦7年(1757)頃には60から70艘になり、その中で吉野丸が一番大きく、続いて兵庫丸、夷(えびす)丸、大福丸、川一丸などが大きい屋形船だったとあります。
 上の絵は、目録に「両国橋川開きの図」とありますが検閲をした印の改印(あらためいん)がなく、改印法が実施された寛政3年(1791)以前の絵と考えられます。絵の手前右手の屋形船には大福とあり、その左の船には吉野とあり、前述の宝暦7年頃の大きい屋形船としてあげられた吉野丸、大福丸のようです。
 この絵では屋形船での飲食の様子はわかりませんが、元禄9年(1696)刊の井原西鶴の『万の文反古(よろずのふみほうぐ)』の中の「来たる十九日(6月)の栄耀(えよう)献立」の章に、川遊びの屋形船での饗応の献立があります。江戸ではなく大坂での話ですが、おもな料理名だけあげてみると「大汁(雑魚)、杉焼(鯛と青鷺)、煮さまし(筍)、和え物(さき海老・青豆)、吸物(鱸の雲わた)、引肴(小鯵の塩煮)、田楽(たいらぎ)、吸物(燕巣(えんす)ときんかん麸)、後段に白玉のひやし餅、吸物(きすの細作り)、早鮨、真桑瓜、お茶」とあり、元禄時代の大坂の商人のぜいたくな屋形船での饗応の例として知られています。挿絵を見ると料理をする船は傍らに別にあり、行水のための湯殿のある船も用意されていたようです。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
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