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「江戸名所図会」歌舞伎座百年史より抜粋


 江戸時代の芝居の食について理解していただくためには、まわりくどいようですが、当時の芝居小屋や芝居茶屋についてお話する必要があると思います。
 前回お見せした中村座の錦絵を見ても、運ばれてくる料理を作るところはどこなのか、左右の高いところにある観客席と、中央の桝席の人たちと食事の仕方は違うのだろうかなど、いくつかの疑問がわいてきます。
 初めに現在歌舞伎座のある木挽町を中心に、芝居小屋の種類や変遷、芝居茶屋との関係、そして芝居見物を楽しむ人たちの飲食について話を進めることにいたします。
  江戸時代には歌舞伎の劇場を芝居小屋とよびました。江戸の芝居小屋は、寛永元年(1624)に現在の日本橋丸善の辺に、猿若勘三郎が中村座を創立したのが最初です。
 元禄のころまでは、中村座のほかに、山村座、市村座、森田座があって、四座が官許の芝居小屋でしたが、正徳4年(1714)の江島生島事件で、山村座が取りつぶされてからは、残る三座が官許の櫓をあげた大芝居で、江戸三座とよばれました。
 また大芝居のほかには、寺社地境内や盛り場での興業を許された、櫓を上げることや引き幕を使うことのできない小芝居(宮地芝居)もありました。
 現在の歌舞伎座がある場所は、江戸時代には木挽町とよばれ、昔江戸城造営の時に、木を挽く鋸(のこぎり)匠が多く住んでいたところからの町名といわれています。
 木挽町に初めて出来た芝居小屋は山村座で、正保元年(1644)のことでした。その後慶安元年(1648)には河原崎座が建ち、万治3年(1660)には森田座が出来ました。そのころの木挽町は芝居町として繁栄していましたが、山村座の取りつぶしや、河原崎座の廃座などがあり、天保13年(1842)の水野越前守の庶政改革で、中村座・市村座とともに森田座も浅草の猿若町に移りました。
 時代が移り明治22年(1889)になって、木挽町3丁目に歌舞伎座が創立されました。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
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