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かばやき 沢村訥升
歌川国芳画  『魚づくし』組本社刊
 今年の土用の丑の日は7月27日(金)です。夏の土用の最初の丑の日に鰻の蒲焼を食べる習慣は江戸後期からのもので、ある鰻屋が平賀源内の知恵を借りて、夏の土用の丑の日に鰻の蒲焼を食べると薬になると宣伝したのが始まりといわれています。
 『万葉集』にも、大伴家持の歌として「石麻呂(いそまろ)にわれ物申す夏やせによしといふものぞうなぎ取り召せ」があり、奈良時代から夏やせに鰻がよいことは知られていたようです。
 鰻の蒲焼は、初めは丸のまま縦に串をさして焼き、その形が蒲の穂に似ているところからの名といわれ、開いて焼く蒲焼は江戸時代に入ってからのものです。『和漢三才図会』(1712年刊)には開いて焼く蒲焼があり、その頃からのものと思われます。
 安永6(1777)年刊の『富貴地座位(ふきじざい)』には、江戸名物料理之部の中に「江戸前樺焼 やげん堀深川」とあり、大名などの注文が多い高級店だったようです。文政(1818−30)期になると店構えの鰻屋が多くなり、屋台の鰻屋も繁盛しました。
 大久保今助という名は、鰻丼(鰻飯)の創始者として知られていますが、今助は中村座、市村座の金主(興行資本家)で、化政期の江戸劇壇の実力者でした。鰻が好物でしたが仕事が忙しく鰻屋に行けず、取り寄せるとさめてしまうので、大きな丼に熱い飯を入れて持たせてやり、その中に串ごと入れて持ち帰ることを発明し、鰻丼の元になったのだそうです。それまでは鰻と飯は別々に食べていました。
 上の絵には「かばやき」とあって、鰻を裂く沢村訥升(とっしょう)が描かれています。初代訥升は享和2(1802)年に生まれ、天保2(1831)年に訥升となり、天保15(1844)年に五代目沢村宗十郎を襲名した人です。改印からみてもこの絵は天保年間のものと考えられます。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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