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浅草山中花くらべ
梅蝶楼国貞(二代目歌川国貞) 安政4年(1857) 国立国会図書館所蔵
 「浅草山中花くらべ」の錦絵は5枚続きのものですが、上の絵は右側の3枚です。風景から見て浅草山中とは、観音堂西側の奥山と呼ばれた地域をさすものと思われます。浅草寺境内には楊子店や水茶屋なども多く、とくに奥山では18世紀前半の享保ごろから、見世物や曲独楽(きょくごま)などの興行が行われ、後には辻講釈や手妻(手品)なども加わり、参詣人を楽しませたといいます。
 『図説浅草寺』(1996)によると、八代将軍吉宗は鷹狩りの帰りに浅草寺へ立ち寄って曲独楽を見ており、十代将軍家治はたびたび浅草寺に参詣して奥山の諸芸を見たそうです。
 芝居好きの殿様で知られる柳沢信鴻
(のぶとき)の『宴遊日記』には、観音へ納経のため月に2〜3回は浅草寺へ参詣した記録があります。
 このように浅草寺は将軍から庶民まで多くの人々の信仰を集め、奥山での娯楽もあって江戸一番の名所でした。

 境内で売っていた名物の浅草餅についてはNO.147で紹介しましたが、現在も仲見世で売っている雷おこしも、江戸時代後期の寛政ころから浅草寺参詣の土産物として有名でした。雷おこしの名は、浅草寺の総門の雷門(本来の名は風神雷神門)の前で売っていたおこしということです。おこしの原形は奈良時代に中国から伝えられた唐菓子の一つといわれ、古くは「おこしごめ」と呼びました。
 おこし米の作り方は『古今名物御前菓子秘伝抄』(1718)には、蒸したもち米を煎って水飴でこね固めるとありますが、『守貞謾稿』(1853)では、おこしと略称し「今世はうるち米を蒸して日に晒し、干しいいとなして後、水飴と砂糖をもってこれをねり、はこに入れさまし拍子木の形に切る」とあります。また、京坂のおこしは作り方が違うので石のように固く岩おこしというと、江戸との違いを記しています。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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