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東都名所亀戸梅屋舗全図
歌川広重画 国立国会図書館所蔵
 歌川広重の『名所江戸百景』の中に、ゴッホが模写したことで有名な「亀戸梅屋舗(やしき)」(1857)があります。上の絵には「東都名所亀戸梅屋舗全図」とあり、右下には一立斎広重とあって、改印は極(きわめ)の一つです。広重が一立斎の号に改めたのは天保3年(1832)で、極印一つは天保13年までなので、この絵は1832年から1842年の間、「亀戸梅屋舗」より前の版行と思われます。

 亀戸梅屋敷のことはNO.62でも紹介しましたが、『江戸名所花暦』(1827)には梅の名所の第一にこの梅屋敷をあげ、「本所亀戸天満宮より三丁ほど東のかた、清香庵
(せいきょうあん)喜右衛門が庭中に臥龍梅(がりょうばい)と唱うる名木あり」としています。場所は現在の江東区亀戸3丁目の辺で、庭内の建物清香庵は安政の江戸地震(1855)で潰れ、名木臥龍梅は明治43年(1910)の水害で枯死し、明治末には廃園になったそうです。
 梅屋敷では、梅の実を梅干に加工して売っていたそうですが、江戸時代には梅干は食生活の必需品だったようです。寛永7年(1630)刊の和歌の形式で書かれた本草書『和歌食物本草』には「梅干は吐逆をとめて痰を切るのどの痛むに含みてぞよき」「梅干は口の乾きを止むるなり食をばすすむ多く食すな」などがあります。
 江戸時代の料理書で梅の実を使った加工品を見ると、梅酒のほかは梅が香、梅醤(うめひしお)、煎酒など、どれも梅干を使っており、現在より多様な用途があったようです。最近の市販されている梅干は食べやすい味に作られていますが、本来の梅干は塩からくて酸っぱいものでした。たとえば梅干と鰹節粉を酒と醤油で煮詰めた梅が香を再現してみても、現代人の嗜好に合わせるのには工夫がいりそうです。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
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