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堺町葺屋町戯場(さかいちょうふきやちょうしばい)『江戸名所図会』より
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  NO.5の「芝居見物の楽しさ」でご紹介した今泉みねの芝居見物は、芝居町が猿若町にあった幕末のことでしたが、それより90年ほど前に、芝居好きの隠居した大名が、詳細な観劇記録を残しています。
  この人は柳沢吉保の孫にあたる柳沢信鴻(のぶとき)で、大和郡山藩の2代藩主でしたが、50歳で隠居した安永2年(1773)から、62歳で剃髪(ていはつ)した天明5年(1785)までの13年間、書き続けた日記が「宴遊日記」で、13巻26冊あります。
  そしてその間に観劇した日だけ119日の記録を集めたものが「宴遊日記別録」で3巻3冊あります。別録の中で芝居茶屋での食事の記録は、119日の中の49日で巻1に記されています。
  信鴻は隠居してからは江戸幸橋(さいわいばし)の上屋敷から、駒込染井の下屋敷(現在の六義園(りくぎえん))に移り、俳諧、書画、観劇などの趣味の生活を送っていました。
  芝居好きの信鴻は、たびたび芝居見物に出かけていますが、大抵徒歩で往復しています。
  当時の芝居町は葺屋(ふきや)町、堺町にあり、現在の中央区日本橋人形町のあたりでした。
  上の図では、葺屋町の市村座や堺町の中村座が見えています。現在の六義園から人形町のあたりまで随分遠いように思いますが、芝居見物の楽しさは大きく、往復の徒歩は苦にならなかったようです。
  次回から日記の内容や、芝居茶屋での食事についてご紹介しましょう。

注)
「宴遊日記」と「宴遊日記別録」は『日本庶民文化史料集成』第13巻に翻刻と校注があり、本稿はそれによっています。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール


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