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桜丸女房八重
歌川豊国(初代)画 文化8年(1811)頃 桜丸は五代目岩井半四郎 個人所蔵
 
 9月の歌舞伎座の昼の部には、「菅原伝授手習鑑」の賀の祝の一幕があり、今回「桜丸女房八重」の錦絵をご紹介できるのは、ほんとうに嬉しいことです。
 賀の祝は梅王丸、松王丸、桜丸の三つ子の兄弟の父白太夫の70歳の誕生祝で、春、千代、八重の3人の嫁が祝いの膳の料理をします。上の錦絵では八重は鰹節を削っています。

 
 以前にみた賀の祝の舞台で、八重が何の料理をしていたか覚えていないので何人かに尋ねたのですが、大根を切っていたのではとか、摺鉢でみそを摺っていたのではとかはっきりしませんでした。知り合いの専門家には、せりふの中に「なにはなくとも鰹膾」があると教えていただきました。歌舞伎の門外漢が、質素な祝いの膳として考えると、鰹膾を主菜に飯と汁、それに野菜の煮物と香の物の献立が考えられます。
 
 「菅原伝授手習鑑」は平安時代の菅原道真を題材としていますが、人形浄瑠璃としての初演(大坂)は延享3年(1746)、歌舞伎の初演(江戸)は翌年で、江戸中期のものです。
 江戸時代には庶民の日常食に鰹節はぜいたくでしたが、料理書には江戸初期から、だしは料理の基本として、だしのとり方が詳しく書かれています。江戸時代には、だしといえば鰹節のだしをさし、昆布は精進のだしの材料でした。

 だしが料理の基本であれば、八重が鰹節を削っているのは当然のことですが、小刀で削っているのはなぜでしょうか。現在のかび付け4回以上の堅い本枯節は江戸末期からのもので、当時はかび付けをしない荒節か、かび付け回数の少ない枯節で、小刀で削るのが普通でした。引き出し付きの小箱の上にカンナがのった鰹節削り器は、本枯節の普及した明治初期からのもののようです。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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