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絵の題に梅屋敷漬梅とあります。梅の漬物には梅干のほか青梅漬(青梅の塩漬)、糟梅(酒の粕に漬けたもの)などもあり、梅酒も現在とほぼ同じ作り方が『本朝食鑑』(1697)にあります。梅屋敷の漬梅は梅干でした。
江戸自慢三十六興 梅屋敷漬梅
歌川広重(二代)、歌川豊国(三代)画 
国立国会図書館所蔵
 
 日本人が好きな花は、中世ごろまでは梅で、その後桜になったといいます。江戸時代は花見といえば桜でしたが梅の名所もあり、江戸では本所の亀戸天満宮の近くにあった梅屋敷が有名でした。
 梅屋敷は『江戸名所図会』(1836)にもありますが、農学者大蔵永常
(ながつね)の『広益国産考』(1859)にも、梅干の作り方とともに次のように書かれています。
 
 「此所の梅は地を這いて龍の形あれば、臥龍梅(ぐゎりゅうばい)とて一種の名木也。寛政文化の頃、東都に俳諧を楽む一老人あり。隅田川の辺りに地面を求め、草庵をむすび、其四方に梅の木の一、二尺廻りにもあまれるを三百六十本調へ植え置きけるに、新梅屋敷と称し、春は男女群集せり。」
 さらにこの老人の話として、梅を植えたのは風流のためではなく、梅の実を梅干にして商売をするためとあり、見物客で賑わう時期には、この梅干を臥龍梅の漬物と名付けて梅屋敷で売っていたそうです。この梅干は現在の梅干と同じものだったのでしょうか。
 梅干の名は鎌倉初期のものといわれる『世俗立要集』に武家の酒肴としてあります。梅干の作り方は江戸時代に入ってからの料理書にあり、少し色付いた梅一斗に塩三升をまぜておもしをしておき、梅酢が出て来たら昼は日に干し、夜は梅酢につけることを繰り返して、しわのよる程に干して壷に入れて保存するのが常法です。
 紫蘇を加えて赤くする梅干の漬け方は、『四季漬物塩嘉言』(1836)からですが、『本朝食鑑』(1697)の紫蘇の項には、梅の実と一緒に漬けると赤くなるとあり、梅干がいつごろから赤くなったのかは、確証がありません。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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