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左上に見える薬玉(くすだま)は、端午の節供に邪気を払うために柱などにかけたものです。
じゃ香、沈香、丁字
(ちょうじ)などの香料を錦の袋に入れて糸や造花で飾り、菖蒲やよもぎをあしらい、五色の糸を長く結び下げたものです。
五節掛物の内五月(団扇絵)
歌川豊国(三世)画
国立国会図書館所蔵
 
 端午の節供(句)には、江戸ではおもに柏餅、京都・大阪では粽(ちまき)を食べる風習があったことは、昨年のNO.35に書きました。江戸の柏餅は自家製が多く、宝暦(1751-64)ころから菓子屋でも売り始めたといいます。
 最近、江戸後期の自家製柏餅についての記録をみることが出来、江戸の柏餅は贈答品としての役割が大きかったことを知りました。

 
 その記録は、現在も「にんべん」として知られる日本橋の鰹節商高津家に伝わる「家内年中行事」です。文化12年(1815)から大正年間まで100年余にわたり、行事食を中心に書かれており、未公刊のものですが興味深い史料です。その中の文化12年5月5日の記事の中に柏餅があります。
 
「柏餅 白米二斗、小豆五升五合、上黒砂糖百疋分、葉千六百枚余」
 これが柏餅の材料で、柏餅を贈る親類など20軒の名と、それぞれへの個数が書いてあります。
 白米は36リットルで約28キロ、小豆は9.9リットル、上黒砂糖百疋分は金額で、現在のおよそ15,000円です。柏の葉が1,600枚余りですから1,600個も作ったのでしょうか。この中500個程は贈り物にしています。
 大きな商家ですから人手はあったのでしょうが、米を粉にすることから始めて、大変な手間がかかっています。

 同じ江戸後期の『馬琴日記』にも柏餅の記事があります。流行作家滝沢馬琴家では文政11年(1828)5月5日、孫の太郎の初節供(句)に約300個の柏餅を菓子屋で買い、親類など9軒に贈っています。翌年からは毎年自家製で家人3人で200個から300個の柏餅を作り、親類などへ贈っています。
 柏餅を通して、現在と江戸時代の暮らし方の違いが感じられます。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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