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日本橋の上には荷物満載の荷車、左手の橋のたもとには天秤棒で鮪をかつぐ人、貝や伊勢海老も見えます。また日本橋川沿いには遠くまで倉庫が並んでいます。
 木曽街道 日本橋雪之曙
 渓斎英泉
(けいさいえいせん)画 天保6年(1835) 財団法人 味の素食の文化センター所蔵
 日本橋が平川(後の日本橋川)の上に、はじめて架橋されたのは慶長8年(1603)といわれていますが、火事で焼失することも、たびたびありました。
 江戸初期には、日本橋を起点として街道が整備され、享保元年(1716)には、東海道、中山道、奥州道中、日光道中、甲州道中の五街道の呼称がきめられました。中山道(中仙道)は日本橋から京都までの街道で、信濃国木曽路を通るので民間では木曽街道と呼ばれていました。
 日本橋の周辺には問屋が多く、日本橋川沿いには倉庫が立ち並び、江戸の商業の中心地でした。また北岸の本船町、本小田原町などには魚市場(魚河岸)があり、幕府への納魚と江戸中の魚商売の中心で、早朝からにぎわっていました。
 この魚市場は、天正18年(1590)に摂津国佃島の漁師が、幕府へ献上した残りの魚を、この地で販売する許可を得たのが発端といわれています。
 その後、江戸の人口の急増とともに魚市場は繁盛し、元禄以降には魚市場は朝千両、芝居小屋は昼千両、吉原遊廓は夜千両ともいわれました。
 『江戸繁盛記』(1832)には「日本橋魚市」として繁栄の様子が記され、流通する魚介類の種類を鯛を第一位として35種もあげています。
 
江戸城へ納める魚介類も大量で、天保6年(1835)の十五夜月見の日には、日本橋魚市場から鯛170、かれい700、あわび800、伊勢海老1200を納め、新肴場や芝雑魚場など他の魚市場の分も加えると、さらに多い数量でした。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
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