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辰巳十二時ノ内戌ノ刻
香蝶楼国貞(三代歌川豊国)画  『魚づくし』組本社刊
 画題には「辰巳(たつみ)十二時ノ内戌(いぬ)ノ刻」とあります。辰巳は十二支で表した方角の名の一つで、辰と巳との間の方角、南東のことですが、江戸時代の遊里(遊郭)深川の異称でもありました。深川は江戸市街の南東にあたるところから辰巳とよばれ、深川の芸者のことは辰巳芸者とよびました。
 戌の刻は現在の午後8時ごろ。またおよそ午後7時から9時までの間をいいます。
 料理を運ぶ女性は軽子(かるこ)とよばれ、深川の岡場所(非公認の遊里)で、遊客や遊女の世話をし、座敷へ酒肴を運ぶ仕事などをしていました。軽子は本来は軽籠と書き、物を運搬する道具で、運搬する人をさしましたが、深川では酒肴を運んだりする女性を軽子とよびました。
 なお吉原では男性がこの仕事をし、若い者とよばれていました。
 江戸初期の深川は漁師町でしたが、寛永4年(1627)に、永代島(現在の富岡八幡宮の周辺)に富岡八幡宮と永代寺が創建されました。明暦の大火(1657)以降は、隅田川より東の本所・深川が開発され、万治2年(1659)には両国橋が架けられ、深川は急速に都市化しました。
 永代寺の門前は料理屋や屋台の並ぶ繁華街になり、やがて辰巳の遊里ができます。江戸時代の深川は、信仰と行楽の場所として多くの人々が訪れました。
 安永6年(1777)刊の評判記『富貴地座位(ふきぢざい)』の料理の部には、深川州崎の升屋(ますや)と深川の二軒茶屋があげられています。升屋は建物の結構、眺望は絶佳、すぐれた包丁で知られ、二軒茶屋は富岡八幡宮境内にあった松本屋と伊勢屋の2軒のことで、料金が高価なことから「二けん茶やきもをつぶして払いをし」(明和3年)の句があります。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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