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東海道五十三次の内 水口の図
香蝶楼国貞(のちの三代目歌川豊国)画 国立国会図書館所蔵
 水口(みなくち)宿は前回の桑名宿から、四日市・石薬師・庄野・亀山・関・坂下・土山・水口と八っ目の宿場です。東海道は四日市を少し西へ行った日永(ひなが)の追分で、伊勢へ行く伊勢街道と別れて京都へ向います。『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛・北八の2人は伊勢参宮が目的なので、伊勢街道に入っています。この辺りの東海道の宿場で名物の食べ物には、庄野の焼米(やきごめ)と水口の干瓢(かんぴよう)があります。
 焼米は奈良時代からある食べ物ですが『和漢三才図会』(1712)には、要約次のようにあります。「焼米は糯稲(もちいね)を焼いて米としたものである。秋に造るが、未熟な青稲をとって籾のまま炒り、碓(からうす)で搗いて籾殻をふるいとると、平たく味は甘美な焼米ができる。粳(うるち)で造ると平たくならず味も劣る。あちこちどこでも造るが、勢州の荘野(庄野)のものが有名である」。
 焼米は加熱してあるのでそのまま食べることができ、糒(ほしいい)と共に古くから保存食・携行食として用いられました。また『東海道名所記』(1661)には、庄野名物「俵の焼米」として、青い紐で編んだ握りこぶし大の俵形の袋に焼米を少し入れたものを、子や孫への土産用に旅人が買ったとあります。
 水口の干瓢についてはNO.90で紹介しましたが、干瓢の用途は現在よりも多様で、江戸時代にはだしの材料としても用いられました。だしといえば鰹節を連想しますが、動物性の材料を用いない精進料理の場合には精進のだしが用いられました。『料理物語』(1643)には「精進のだしは かんへう 昆布 ほしたで もち米 ほしかぶら 干大根 右の内取合せよし」とあり、これらの材料を水で煮出して用いています。現在は精進のだしの材料はおもに昆布ですが、江戸時代料理書では必ず干瓢もあげられています。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
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