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日月星の内 月
歌川国貞(のちの三代目豊国)画 国立国会図書館所蔵
 近くに海が見える景色は品川らしく、室内の光景は、料理屋か遊女もいる旅籠屋でしょうか。品川は吉原を北というのに対して、南とよばれるほど、娼家が旅籠屋の体裁であり、数多くの料理屋や水茶屋も並んでいたといいます。中央の仕切りの向こうの座敷には、花入れにすすきと客の影が見え、右側には客の相手をする女性がいます。
 月が主題の絵ですから、旧暦8月15日(新暦では今年は9月25日)の十五夜かと思いましたが、中央の女性は団扇を手にしており、旧暦7月26日の二十六夜待の月のようです。
 江戸後期の風俗を記した『絵本江戸風俗往来』には二十六夜待について「別して繁昌なるは高輪海岸より品川なり。こは、年中この地第一の賑わいなりしは、天保以前のことなりとかや。その以来は掛茶屋に月待の客来たり、茶菓酒肴のみにて、鳴物手踊・にわかなどの催しは絶えてなし。」とあります。

 客のいる座敷に見える折敷の上には深鉢と小鉢があり、その右の大皿は刺身のようです。
 両国の涼み舟の錦絵にも刺身が描かれていることはNO.113でとり上げましたが、江戸の人々の第一のご馳走は刺身だったようです。

 当時の庶民の食生活は質素で、魚介類はハレの日のものでしたし、生鮮魚介類は無塩
(ぶえん)とよばれて特別のご馳走でした。
 『柳多留』に「恥しさ医者へ鰹の値が知れる」(安永4年)の句もあり、安い鰹の刺身で中毒する人もいたようです。冷蔵設備のない時代の刺身は衛生的に心配ですが、井戸水や雪の利用など、いろいろ工夫もしていたようです。また江戸時代後期にあたる18世紀半ばから19世紀半ばまでは、小氷河時代のなかでも気温が低く、江戸では冬に両国(隅田)川が何度か氷結した記録もあり、気象条件も刺身の流行を助けたのではとも考えられます。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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