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東海道五十三次の内 御油の図
香蝶楼国貞(のちの三代目歌川豊国)画 国立国会図書館所蔵
 御油(ごゆ)は東海道の宿場で、江戸から297.5キロ、京都へ194.6キロで、現在の愛知県豊川市御油町です。
 江戸時代の庶民の宿には、朝夕の食事を提供する旅籠と、宿泊客が薪代を払って自炊する木賃宿がありました。江戸初期には木賃宿が主流で、旅籠が一般化するのは、江戸中期頃からといわれています。

 当時は現在のように宿泊を予約することがなかったので、宿場の旅籠は客を確保するために、各種の講(寺社への参拝などの目的で作られた団体)の定宿になるように努力し、また路上で旅人に呼びかける客引きが盛んでした。
 上の絵でも旅籠の前の路上で、客引きの女(留女)が旅人を強引に引き止めています。歌川広重の「東海道五十三次」の御油の絵にも同様の光景が見られます。

 絵の右端の旅籠の店先には、たらいで足をすすぐ客と、客の荷物を持つ女中が見えます。『東海道中膝栗毛』初編(1802)の、弥次・喜多が戸塚の宿に泊る場面を見ると、先ず女中が足すすぎのたらいに湯をくんできて、2人の荷物の柳行李(やなぎごうり)と風呂敷包みを座敷に運んでいます。2人はたらいの湯で足をすすぎ、脚絆(きやはん)も洗い、座敷へ通ると女中に茶を持ってこさせます。旅籠での第一は足を洗うことでした。
 弥次・喜多は御油では泊らず、茶店に寄っただけですので、戸塚の宿での夕食を見ると、酒の肴に白板かまぼこ(白い上等のかまぼこ)、漬しょうが、車海老、紫蘇の実、赤みその吸物などがあげられています。このあとの食事の膳については内容が省略されていますが、一汁二菜程度のものと思われます。旅籠の食事は宿泊代の上中下によって、それなりの料理を出していたようです。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
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