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風流役者地顔五節句正月之図
一陽斎豊国(初代歌川豊国)画 国立国会図書館所蔵
 
 平穏な年でありますように願いながら2005年の正月を迎えました。正月は「お正月さま」とよばれる年神さまを迎えて五穀豊穣を祈る農耕儀礼が本来のもので、年神さまに供えた神饌(しんせん)を下げて祝食するのが正月のおせちでした。
 おせちが重詰になったのは江戸時代からですが、その原形は江戸時代以前からある蓬莱(ほうらい)のように考えられます。
 
 上の絵は「風流役者地顔五節句正月之図」とあるように、三代目坂東三津五郎(1775−1831)の似顔絵で、江戸後期の正月風景が描かれています。
 左手前に四重の重箱、その後にあるのが京坂(京都・大坂)では蓬莱、江戸では喰積
(くいつみ)とよばれたものです。『守貞謾稿』(1853)によるとその作り方は、三方の中央に真物の松竹梅を置いて回りに白米を敷き、その上に燈一つ、密柑、橘、榧(かや)、搗栗(かちぐり)、鬼ところ、ほんだわら、串柿、昆布、伊勢海老などを積み、裏白、ゆずり葉などを置くとあります。
 江戸時代も天明(1781−89)ごろまでは、喰積はその名のように、つまんで食べられるものでしたが、その後は食べる形だけで実際には食べないものになりました。その後寛政(1789−1800)ごろから、食べられる祝い肴(数の子・ごまめ・黒豆など)を詰めた重詰が作られるようになり、飾るだけの喰積は重詰と並存し、明治になると喰積はすたれて重詰が一般化したものと考えられます。
 天保7年(1836)刊の『日用惣菜俎(にちようそうざいまないた)』には、年始重詰として「初重かずのこ、二重ごまあへたたき牛蒡、三重鮒昆布巻、四重黒煮豆またはてりごまめ」とあります。
 現在にくらべ、江戸のおせちは質素でした。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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