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十二月之内 師走餅つき 
三代目歌川豊国 画 安政一年(1854) 国立国会図書館所蔵
 
 餅搗きは江戸の年末の風物詩でした。NO.3NO.51に、三代目歌川豊国の役者衆の餅搗きの絵を紹介しましたが、今回も三代目豊国の餅搗きです。絵の左の方では鏡餅を作っており、その後には出来上がったのし餅が見えます。
 左手前には大根とおろし金と、大根おろしを入れる鉢があります。搗きたての餅をちぎって醤油味の大根おろしをまぶす辛味餅は、江戸時代からあったようです。
 
 江戸では12月15日から大みそかまで、餅搗きで賑やかだったといいます。自分の家で搗いたり、菓子屋へ注文したり、市中を廻る餅搗人足に頼んだりいろいろだったようですが、どの位の量の餅を搗いたのか、当時の記録を調べてみました。
 江戸時代からの鰹節商「にんべん」の高津家に伝わる「家内年中行事」の12月には餅搗覚があります。
 餅搗覚は12あるので、12年分の覚書と思われますが、年による差は少ないので、甲子(きのえね)とある元治元年(1864)の餅搗覚を要約して紹介しましょう。
 「丸餅(鏡餅)
」4升取8寸4個、2升7合取7寸8個、1升5合取6寸51個、1升取5寸1個、3合取3寸55個。
 「水取(水餅)」に5斗5升。「のし餅」に5斗3升9合。全部合計すると使用したもち米は約2石4斗で、1合を140gで計算すると約340kgになります。なお餅搗きは永寿庵へ注文しています。

 大きな商家なので随分大量の餅ですが、丸餅にはそれぞれ届け先も書いてあり、当時は親戚や知り合いに歳暮として餅を配ったようです。『馬琴日記』には、天保5年(1834)12月に、もち米4斗7升を笹屋に注文して鏡餅、のし餅、水餅とし、水餅で自在餅(あんころ餅)を作り、一部を親戚や地主に配ったとあります。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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