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画題の晴嵐は晴れわたった日のかすみで、特に近江八景の一つ粟津が原の、晴れわたった光景をいいます。
晴れわたった日本橋を往来する人々の中には、魚や大根を天秤棒で担いだ行商人も見えます。
 江戸八景 日本橋の晴嵐(せいらん)
 渓斎英泉
(けいさいえいせん)画 弘化頃(1843-1846) 財団法人 味の素食の文化センター所蔵
 江戸時代には、野菜は一般に青物(あおもの)と呼ばれていました。
 江戸の青物市場は、神田をはじめ千住・駒込・本所・京橋・浜町などにありましたが、現在と違って野菜類は、かなりの量が自家生産によってまかなわれていたようです。
 将軍家は江戸城内に数か所の野菜畑があり、城外にも隅田村や府中に畑があって自給し、そのほか神田青物市場からも買い上げていました。大名も広い敷地内に野菜畑を持ち、武士階級は下級武士でも100〜150坪の土地を与えられていましたから、庭に菜園を持っていました。
 小石川に住んでいた幕臣小野直方の日記『官府御沙汰略記』によると、18世紀半ば、江戸の幕臣たちの家では、芋・豆・トウモロコシなどは、ごく一般に栽培されていたようです。
 一方で江戸の人口の約半数を占める町人の居住地は江戸の約1/5でしたから菜園などはなく、野菜は行商の野菜売りから買っていました。『守貞謾稿』(1853)には、瓜や茄子など一、二種だけを売り歩く者を江戸では前菜売り(ぜんさいうり)と呼び、数種を売る者を八百屋と呼ぶが、京坂(京都・大坂)では両方を区別せずに八百屋と呼ぶと記しています。
 江戸の人々が「初鰹」を珍重したことはよく知られていますが、野菜についても初ものを喜び、促成栽培による初もの野菜の生産が流行したので、初もの商売を抑制する御触書がたびたび出されています。
 また名産野菜が知られるようになったのも江戸時代で、江戸近辺では練馬大根、小松菜、滝野川牛蒡、谷中しょうがなどがあり、現在もその名が残っています。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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