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甲子春黄金若餅(きのえねはるこがねのわかもち)
歌川豊国(3世)画 文久3年(1863) 5枚続の中の右2枚
財団法人 味の素食の文化センター所蔵
役者名は向って右から 市川八百蔵、市川市蔵、澤村訥舛、中村芝翫、市村家橘、市川九蔵、河原崎権十郎
 餅は福を招くおめでたい食べ物として、昔から正月やお祝いごとに用いられてきました。いま福引きといえば、くじ引きをして当たった人に景品を出すことをいいますが、江戸時代の福引きは、年の初めに柔らかい餅を向い合った2人が引っぱり合い、取り分の多い方が福に恵まれるというように、その年の禍福を占うことでもあったといいます。
 
 正月に神仏に供える鏡餅は、古くは歯固(はがため)の餅と呼ばれ、正月三ヶ日に、餅などの固いものを食べて歯を丈夫にし、長寿を願ったものでした。
 江戸時代になると『日本歳時記』(1688)に「歯固といひてもちいかがみ(鏡餅)にむかふ。但
(ただし)人は歯をもって命とする故に歯といふ文字をよはひ(齢)ともよむ也。歯固はよはひをかたむるこころなり」とあって、歯固は鏡餅を見るだけのものになっています。
 上の錦絵の餅搗きで使っているのは、胴臼(太鼓胴臼)と横杵(よこぎね)で現在と同じものですが、これは江戸時代中期ごろからで、それまでは弥生時代以来餅搗きの臼は、胴のくびれたくびれ臼と、たて杵が用いられていました。(三輪茂雄著『粉の文化史』(1987)による)
 柳田国男は『木綿以前の事』(1939)の中で「横杵以前の餅は糯米(もちごめ)を用いても、やや粘るというだけでずっと歯切れがよく、むしろいわゆる団子の平たいのと、近いものであったろうかと思う。そして強飯(こわめし)でもなく荻の餅よりもさらによく潰された新式の餅が、世に現われて喝采(かつさい)せられ、始めて多くの人を餅好きにしたのではないかと思う。」と述べており、江戸時代の人々の餅好きの一因のようです。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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