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江戸高名会亭尽 両国柳橋 河内屋
歌川広重画 天保(1830−44)末頃
味の素食の文化センター所蔵
右上の扇面枠に「狂句会 おつな業平河内屋へ度々通ひ ヒトヒ」とある。
毛せんの上に水鉢、絵具皿、筆などが見え、立っている女性は燗鍋を持っています。
 上の錦絵は、両国柳橋にあった会席料理屋、河内(かわち)屋二階での書画会(しょがかい)の様子を描いたものです。河内屋は主人の名が半次郎で、河半ともよばれていました。
 
書画会が料理屋で行なわれるようになったのは寛政年間(1789〜1801)からといいます。
 
 書画会は会場に客を集めて、専門家が書画を揮毫(きごう)し、希望者に販売する会で、『江戸繁昌記』(1832刊)には1章を設けて、書画会について記しており、概略つぎのような内容です。
 「書画会は期日の数ヶ月前らか、大きな看板を出して、当日揮毫する画家、書家などの名を宣伝し、当日は座敷の数ケ所に、毛せんを敷いた台を設け、画家や書家はそこで揮毫し、客たちは料理や酒を楽しみながら、気に入った書画を争って買い求める。会場の会席料理屋としては柳橋の万八と河内屋が知られている」。
 本来、会席とは茶や俳諧などの集まりをいい、その席で酒とともに出される料理が会席料理でした。江戸時代後期に料理屋が多くなり、会席が料理屋で行なわれるようになって、本膳料理を酒宴向きに簡略化したものとして会席料理ができました。『守貞漫稿』(1853)には、天保(1830〜44)の初めころから、会席料理がひろまったとあります。
 「狂歌会席料理名家双六」には、柳橋河内屋半次郎として「白魚(しらうお)の四つ手も春の柳ばし、よくつり舟やつなぐ河内屋」とあります。柳橋街は神田川が隅田川に入る川口の両岸にあり、春には四つ手網で白魚をとる釣舟も河内屋に寄ったのでしょう。
 このように、白帆の舟も見える景色のよい会席料理屋の河内屋には、書画会の会場としての文化的役割もありました。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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