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 菓子屋店頭の図 歌川国貞(二代目)画 明治元年(1868)
 虎屋文庫所蔵
 『和菓子』8号(2001)所収の「江戸の菓子屋」によると、『江戸惣鹿子』(えどそうかのこ)(1689)の記載では、江戸市中の菓子屋は49軒で、その所在地は江戸城を中心にした武家屋敷付近に多かったようです。
 約100年後の『七十五日』(1787)には、記載の食物店391軒の中218軒が菓子屋で、その多くが江戸城東側の日本橋を中心とする当時の繁華街に分布しています。そしてこの変化は菓子の需要が武家社会から庶民にも広がったためと推定されています。
 
 19世紀に入ると、それまでは輸入に依存していた砂糖が国内で生産されるようになって価格も下がり、菓子屋の数はさらに増加します。当時の菓子屋には、菓子屋、駄菓子屋、煎餅屋、飴屋、有卦(うけ)菓子屋などの区別があり、菓子屋の中で上等の菓子を扱う店を上菓子屋と呼びました。
 江戸の上菓子屋としては、大久保主人
(もんと)、桔梗屋河内(ききょうやかわち)、金沢丹後、鯉屋山城(こいややましろ)、鈴木越後などが有名でした。
 文化2年(1805)ころの、江戸の今川橋から日本橋までの大通り(現在の中央通り)の西側の町並みを描いた絵巻物「熈代勝覧」(きだいしょうらん)には、90余軒の店と、さまざまな職種や身分の人々約1700人が描かれています。
 問屋が多い土地柄からか菓子屋は1軒だけですが、道路の真中に台を置いて菓子を並べた立売りが6ケ所も見られ、現在の歩行者天国を思わせます。

 江戸には上菓子屋から立売りまで、さまざまな菓子屋がありました。

注1) 錦絵の菓子屋は、中央の番重に「横山三」「望」とあることから、辻占で有名だった横山町三丁目の望月と考えられます。なお、辻占は吉凶の文句を書いた紙や役者絵の入った煎餅などの菓子のことです。
注2) 「江戸の菓子屋」は中村尚美著。『和菓子』は虎屋文庫の編集で、年1回刊行されている和菓子の専門誌です。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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