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 江戸花見尽 隅田川 香蝶楼国貞画
 虎屋文庫所蔵
 隅田川は荒川の下流部の支流で、享保(1716-36)ころまでは浅草川とも呼ばれていました。
 浅草から隅田川を隔てた向う岸が向島で、向島の隅田川沿いの土手は、桜堤として江戸の花見の名所でした。
 
 江戸の花見の名所は時代によって人気が移り、初めは上野が賑わい、宝暦(1751-64)ころからは飛鳥山が流行し、向島の桜堤の賑わいは天保(1830-44)のころからといいます。
 『江戸名所花暦』(1826)には「墨田川は江戸第一の花の名所にして、この花は享保のころ、台命(たいめい・将軍の命令)によって植えしところの物にして、今も枝を折ることを禁ずるは、諸人のしるところなり」とあり、享保年間の将軍は吉宗でした。
 隅田川の桜餅の出現は享保2年(1717)といわれ、滝沢馬琴の『兎園(とえん)小説』(1825)には、隅田川桜餅について、文政7年(1824)には1年で桜の葉を775,000枚使い、餅一つに葉は2枚ずつ使うので、餅の数は387,500個だったと記されています。
 また『嬉遊笑覧
(きゆうしょうらん)』(1830)には「近年隅田川長命寺の内にて、桜の葉を貯へ置て、桜餅とて柏餅のやうに葛粉にて作る。はじめは粳(うるち)米にてつくりしが、やがてかくかへたり」とあります。
 現在向島の山本屋の「長命寺桜餅」は、小麦粉で作った薄い焼皮であんをくるみ、塩漬の桜の葉3枚で巻いていますが、享保のころの桜餅とは材料にも変化があるようで、長い歴史を感じさせます。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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