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会席御料理 わかせん
五渡亭国貞(のちの三代目歌川豊国)画  『魚づくし』組本社刊
「会席御料理わかせん」の看板のある料理屋の入口に立つ女性が中心の絵で、『魚づくし』にある簡単な解説には、「わかぜん」は江戸にある魚料理で有名な料理屋とあります。
この絵を描いた五渡亭国貞が、三代目歌川豊国と改名する前の、文化・文政・天保年間の評判記や料理屋番付などで調べてみましたが「わかせん」は見つかりませんでしたから、小さい料理屋だったのかも知れません。
江戸では明暦の大火(1656年)後に、金龍山待乳山(まっちやま)門前の茶屋で、奈良茶飯という茶飯に豆腐汁・煮染・煮豆などを付けたものを出したのが料理茶屋の初めといわれています。本格的な料理屋が出来たのは宝暦・明和(1751−1772)の頃で、安永6(1777)年刊の名物評判記『富貴地座位(ふきぢざい)』には、江戸の料理屋として、深川の西宮・洲崎の升屋宗助・浮世小路の百川(ももかわ)など、有名な料理屋の名があります。
江戸後期の『守貞謾稿』(1853年刊)には、巻の五に料理茶屋の項目があり、江戸の会席料理屋について次のように記しています。「天保初め比(ころ)以来、会席料理といふこと流布す。会席は茶客調食の風をいふなり。口取肴など人数に応じてこれを出して、余肴の数を出さず。その他肴もこれに准(じゅん)ず。前年のごとく多食の者はさらに余肴これなく、腹も飽くに至らず。しかして調理はますます精を競へり。今世、会席茶屋にて、最初煎茶に蒸菓子も人数限り、一つも多く出さず。口取肴も三種にて、織部焼などの皿に盛り、これも数を限り余計これなし。口取肴の前に坐付味噌吸物、次に口取肴、次に二つ物といひて甘煮と切焼肴等各一鉢、次に茶碗盛人数一碗づつ、次に刺身、以上酒肴なり。膳には一汁一菜、香の物。」さらに浴室も準備しており、余肴は折り入れて持ち帰りにし、使い捨ての提灯も出すなど、京坂にくらべ江戸の会席料理屋の良さを述べています。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
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