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浅草奥山道外けんざけ
一勇斎国芳(歌川国芳)画  『魚づくし』組本社刊
この絵の題には「浅草奥山道外けんざけ」とあります。浅草奥山は浅草寺の裏側にある見世物小屋などの多い娯楽の地域の俗称でした。道外はどうげと読み道化(どうけ)と同じで、おどけた動作やそれをする人を言います。けんざけは拳酒という遊技の名で辞書によると、2人が向き合って座り、互に右手の指を屈伸してすばやく出して数をよみ、互いの伸ばした指の合計を言い当てた者を勝とし、負けた者に酒を飲ませるとあります。拳は寛永(1624−1644)頃に中国から長崎に伝わり流行したもので、「じゃんけん」も拳の変化したものだそうです。
2人はえんま様と奴(やっこ)で、えんま様は死者の生前の行いを審判して賞罰を与える地獄の王です。奴は下男(げなん)のことですが、髪形や鎌髭から見て武家の使用人のようです。2人の組み合わせも、上の方に書かれたかけ合い言葉もよくわからないのですが、この絵をとり上げたのは、2人の間に「しほから」の器があるからです。鮪らしい刺身は錦絵によく見られますが、塩辛は初めて見ました。
塩辛は魚介類を細かく切って塩漬にして、肝臓などに含まれる蛋白分解酵素で自己消化を起こさせた食品です。古くは獣鳥類も用いられ、『万葉集』の「鹿のために痛を述べて作る」歌の中の「わがみげは御塩のはやし」は、みげは胃や腸の肉で、御塩のはやしは現在の塩辛にあたると『奈良朝食生活の研究』にあります。
川上行藏先生の『つれづれ日本食物史』第2巻の塩辛の章によると、塩辛の名は『日葡辞書』(1603)に見られるのが古く、室町時代にはなんし物・なつし物・なし物などとよばれていました。江戸初期にはなし物と塩辛の名が併用され、次第になし物の名は少なくなり、文化・文政以後はなし物はなくなり、塩辛が常用語となり現在に至るとあります。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
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