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落款なし、享保(1716-36)頃。
たばこと塩の博物館」所蔵
日本橋和泉町の菓子屋とらやの看板と遊女を描いたもの。遊女役は正徳から宝暦(1711-62)ころの歌舞伎役者、松島兵太郎(後の松田百花)と、衣裳の紋から推定されます。

 現在、各地の名物菓子といえば、饅頭(まんじゅう)と羊羹が主流のようですが、江戸時代にも饅頭は人気がありました。饅頭は鎌倉後期に中国から帰国した禅僧によって伝来したものといわれ、また日本に帰化した林淨因(りんじょういん)が奈良で作り始めたともいわれています。
 室町後期の『七十一番職人歌合』の饅頭売りの絵には「さたうまんぢう さいまんぢう いづれもよくむして候」とあり、当時は砂糖が輸入品であったため高価で、甘い饅頭は珍しかったようです。江戸中期になると砂糖が国内で生産されるようになり、江戸後期には砂糖が普及して、現在のような甘い小豆あん入りの饅頭が一般化したようです。
 安永6年(1777)刊の、江戸名物評判記『土地万両』の餅菓子の部から饅頭屋を拾うと、中橋の林氏塩瀬を「日本第一番まんぢうのおやだま」とし、本町の鳥飼和泉の九重まんぢう、浅草金龍山の米(よね)まんぢうをあげています。左の絵の和泉町虎屋高林には「下戸連を嬉しがらするきんとんもち」とありますが、虎屋は中村座や市村座に出入りの店で、顔見世興行の時には木戸の前に饅頭の蒸籠を積み、饅頭屋として知られていました。
 江戸時代の菓子製法書『菓子話船橋』(1841)には、求肥饅頭・吉野饅頭・旭饅頭・朧(おぼろ)饅頭・腰高饅頭・玉子饅頭・薯蕷(じょよ)饅頭・葛饅頭などの作り方があり、饅頭の酒(甘酒)で小麦粉をこねてつくる饅頭の皮の作り方も詳しく記されています。
 
注) 現在、都内赤坂に本社を構える虎屋は江戸時代には京都にあり、明治以降、東京にも出店したといい、江戸の虎屋高林とは違います。
 
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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