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京都名所の内 四条河原夕涼
歌川広重画 国立国会図書館所蔵
 『都名所図会』には「四条河原の夕涼は六月七日より始り、同十八日に終る。東西の青楼よりは川辺に床(ゆか)を設け、灯は星の如く、河原には床几(しょうぎ)をつらねて、流光に宴を催し」とあります。旧暦の6月は現在の7月頃で暑い盛りです。川辺に床を設けとあるのは、絵の左下に見える川に張り出した板張りの涼み台のことです。床は夏に仮設されるもので、供される料理は川魚料理が多かったようです。
 四条河原は、現在の京都市東山区にあり、鴨川に架けられた祇園橋(四条大橋)の両側の河原の名称です。祇園社(八坂神社)へ参詣する人々で賑わい、中世には猿楽や田楽の勧進興行が行われていました。
 歌舞伎の創始者とされる出雲のお国は、慶長8年(1603)に四条河原に舞台を設けて歌舞伎踊の興行を始め、お国歌舞伎と呼ばれました。江戸時代の四条河原には7軒の芝居小屋があったといい、幕末には2軒になり、現在は南座が残っています。
 『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛と北八も、祇園社に参詣する前に四条河原で芝居見物をしています。「七編上 京見物」の中に「四条どふりに出れば、名にしあふ川東のきつすい、ぎおんまちのはんじやうは、りやうかはの芝居、やぐらだいこを打まじへ、てんからてんからのおといさましく、狂言の名代のかんばんはなやかに、対(つい)のはでもやうきかざりたる東西の木戸番、しおからごへにて、サアサアひやうばんじやひやうばんじや・・・」と木戸番が客を呼び込む光景を書いています。
 2人が入った芝居小屋で中売商人が売っていた食べ物は、みづから(昆布を結び山椒を入れた菓子)、宇治山(落雁のような菓子で多くは小判形で黄味を帯びていたという)、饅頭、鯖の鮓などで、北八が饅頭を1個3文で4個ほど買っています。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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