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東海道五十三次の内 池鯉鮒の図
香蝶楼国貞(のちの三代目歌川豊国)画 国立国会図書館所蔵
 池鯉鮒(ちりゅう)は江戸から84里5町、京都へ41里15町で、東海道を江戸から三分の二ほど来た所です。池鯉鮒は現代の知立市の古名ですが、名の由来は諏訪明神の社の前にある池に、鯉と鮒がいたところからともいわれています。
 上の絵には、野原に多数の馬が杭(くい)につながれており、中央の大きな松の木の下には大勢の人が集まっています。池鯉鮒(今の知立市桜馬場)では毎年4月に馬市があり、方々から馬を集めて売買しました。松の木の下の人々は、馬飼や馬の売買をする馬喰(ばくろう)と呼ばれる人たちで、馬の値段をきめるために集まっています。
 池鯉鮒を過ぎて次の鳴海(なるみ)宿の手前に、芋川という立場(宿と宿の間の休憩所)があり、うどんが名物で「芋川うどん」と呼ばれていました。現在の「ひもかわうどん」は、芋川うどんが訛(なま)った名ともいわれています。『東海道名所記』(1661)には「いも川、うどん・そば切あり。道中第一の塩梅(あんばい)よき所也。」とあります。この芋川のうどんは平たいい紐のようなうどんだったらしく、『用捨箱』(1841)では、「今、平温飩(ひらうどん)をひもかはといふは、芋川の誤りなるべし。其さまの似たるをいはば、革紐とこそいはめ、紐革とはいふべからず。されどひもかはとあやまりしもまたふるし。」としています。
 現在の国語辞典で「ひもかわうどん」を調べると「革紐のように平たく作ったうどん、きしめん」とあります。『守貞謾稿』(1853)には「今江戸にてひもかはという平打うどんを、尾の名古屋にてはきしめんというなり。」とありますから、きしめんの名は江戸後期に名古屋の辺で始まったようです。
 碁子麺(きしめん)は鎌倉時代に中国から伝えられた点心の1種で、小麦粉で作った碁石形の小さい丸い麺でしたが、なぜ平打うどんの名になったのかはわかっていません。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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