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東海道五十三次の内 藤枝の図
香蝶楼国貞(のちの三代目歌川豊国)画 国立国会図書館所蔵
 藤枝は江戸から22番目の宿場です。絵には問屋場(といやば)で荷物の引き継ぎをする人足や馬が見えます。この交代を人馬継立(じんばつぎたて)といい、右上の高い床に座っているのが問屋場の役人で、人馬継立の差配をし、中央右側の武士が引き継ぎの監視役です。手ぬぐいで汗をふいたりしているのは藤枝宿まで荷物を運んできた人足で、天秤棒に荷物を取りつけたり、馬の背中に荷物を乗せたりしているのは引き継ぐ方の人足です。この絵も「鞠子の図」と同様に、広重の保永堂版「東海道五十三次の内藤枝」と、中央の女性以外はよく似ています。
 藤枝と次の宿場島田との間にある瀬戸村は染飯(そめいい)が名物として知られており、島田の先の川越(かわごし)で有名な大井川を渡ると金谷(かなや)です。大井川が増水で川留めになると、島田と金谷の宿場は旅人が溢れたといいます。
 金谷から次の日坂(につさか)への間には小夜の中山があり、山の中の立場(たてば)という旅人の休憩場所の茶店では「飴の餅」を売っていました。白い餅で水飴を包んだものといわれ、おいしいという記録はないようです。日坂の蕨餅については、染飯と共にNO.220に書きました。
 日坂から下ると掛川、次が袋井の宿で、東海道五十三次の真中(まんなか)27番目の宿場です。距離からいうと次の見付宿の中の町という所が、江戸から62里28町、京都へも62里28町で、東海道の真中の町になります。見付の名は、京から下る人が、ここで初めて富士山を見つけるからといいます。
 見付のすっぽんは、それまで毒があるとされて誰も食べませんでしたが、天明(1781-89)の末頃ある人が煮て売り出したところ評判がよく、店も増えて寛政(1789-1801)年間には名物となったといわれています。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
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