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東海道五十三次の内 川崎
香蝶楼国貞(のちの三代目歌川豊国)画 国立国会図書館所蔵
 絵には「東海道五十三次之内 川崎之宿」とあり、川には旅人の乗った船、向う岸には船を待つらしい人々が見えるので、此所はは六郷川(多摩川)の渡船場(とせんば)のようです。六郷川には慶長(1596−1615)年間に橋がかけられましたが、貞享3年(1686)の洪水で流され、その後は渡船になったといいます。
 NO.213で紹介した東海道の上り唄の第3節に「六郷のあたりで川崎の、まんねんや。鶴と亀との米(よね)まんぢゅう。こちや神奈川いそいで保土ヶ谷へ」とあります。万年屋の奈良茶飯については前回に書きましたので、今回は米饅頭をとりあげました。
 米饅頭は川崎宿の鶴見川に近い市場村(現在の鶴見市場)あたりで売られていたもので、文化(1804−18)の頃川崎宿には饅頭屋が7軒あり、その中の鶴屋と亀屋が米饅頭で知られていたようです。

 米饅頭は慶安(1648−52)の頃に、江戸浅草の待乳山(まつちやま)聖天宮門前の茶屋が初めて売り出したといわれています。山東京伝の『骨董集』(1815)には、「金竜山米饅頭」の項目があり、要約すると次のように記しています。「江戸名物米饅頭の根元(こんげん)は、浅草聖天金竜山の麓屋、鶴屋である。慶安の頃に鶴屋の娘のおよねが始めて作ったという説は疑わしく、延宝(1673−81)の頃までは辻売であった。米饅頭は米(こめ)をよねともいうので米粉の饅頭で、娘の名ではない。」また『嬉遊笑覧』(1830)には「米饅頭は小麦まんぢうに分つ名也。米といふより其形をも米粒の形に作りしなるべし。」とあり、形が米粒のように細長い丸形だったところからの名としています。
 また、川崎では江戸時代から大師河原で梨づくりが始まり、明治8、9年に偶発実生として発見された長十郎は、此所から全国に広がったといわれています。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
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