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足利絹手染の紫 十二月の内弥生
歌川豊国(三代目)画 味の素食の文化センター所蔵
 絵の題には「足利絹手染の紫(あしかがぎぬてぞめのむらさき)十二月の内弥生」とありますが、右側の船に立っている男性は『偐紫田舎源氏』の挿絵に描かれた足利光氏(みつうじ)のようです。
 柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』は、『源氏物語』を翻案した戯作
(げさく)(近世後期の通俗小説)で、時代は足利義政治世の東山時代、主人公は源氏の光君になぞらえた足利光氏で、紛失した将軍家の重宝を探し、謀反人を滅ぼすという話です。文政12年(1829)に書き始めて、38編で天保の改革にあい、天保13年(1842)に絶版処分を受け、柳亭種彦も同年に死去しています。
 天保の改革が挫折してから門弟たちによって続編的なものが書かれ、その一つが『足利絹手染の紫』です。この錦絵の絵師は三代目豊国ですが、『偐紫田舎源氏』の挿絵は国貞で、弘化元年(1844)に三代目豊国に改名しています。

 この絵は地形から見て品川沖のようで、大勢の潮干狩の人々で賑わい、左の方には二八とあるそば屋の屋台、中央には冷水売り、右側の船の向うにも何かを売る人々が見えます。当時の潮干狩りについては『東都歳時記』(1838)の3月3日(旧暦)の項に「芝浦・高輪・品川沖・佃島沖・深川洲崎・中川の沖、早旦(早朝)より船に乗じて、はるかの沖に至る。卯(う)の刻(午前6時頃)過より引始めて、午(うま)の半刻(正午頃)には海底陸地に変ず。ここにおりたちて蛎蛤を拾ひ、砂中にひらめをふみ、引残りたる浅汐に小魚を得て宴を催せり」とあります。
 明治44年(1911)の『東京年中行事』の潮干狩りには、場所は江戸時代と同じですが、干潟まで行く船は旗や提灯などで飾り立てたり、太鼓を叩いて踊ったりの遊び船で、貝を拾うより遊び船の人々が多く、大抵は帰りに貝商人から買って帰るとあり、明治になると潮干狩もさま変わりしたようです。

 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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