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うなぎ蒲焼売り (原図 『守貞漫稿』) 
絵 入野雅子
 
 NO.1にうなぎ屋の錦絵を掲載しましたが、当時は店舗よりも、街中を売り歩く辻売のうなぎ蒲焼売が多かったようです。
 『守貞漫稿』(1853)には、著者の喜多川守貞が京坂(京都・大坂)から江戸に移り住んだため、両者の比較が随所に見られますが、うなぎの蒲焼についてもその違いを指摘しています。
 
 上図のうなぎ蒲焼売は、うなぎを割いて焼いて売る京坂の辻売で、江戸では家で焼いて岡持(おかもち)という手桶に入れて売り歩く。
 京坂はうなぎを腹から割き、江戸は背から割く。京坂は大骨を除いたうなぎを首尾全体に鉄串をさして焼き、串をとって朱塗の大平椀に盛るが、江戸は大骨を除いたうなぎを二、三寸に切り、それぞれに竹串をさして焼き、串をとらず陶皿に盛る。
 焼く時に付けるたれは、江戸は醤油にみりんをまぜ、京坂は醤油に諸白(もろはく)酒をまぜる。
 現在関東風蒲焼は、白焼にしたものを蒸してから焼き、関西は蒸さずに焼くようですが、白焼きを蒸す手法の始まりはよくわかりません。三田村鳶魚は「天麩羅と鰻の話」の中で『遊歴雑記』に、十方庵が文政8年(1825)に越ケ谷で、白焼を蒸してから焼いた蒲焼を食べた話があるのを紹介しています。
 鳶魚はまたうなぎ丼の創始者は、堺町の芝居の勧進元大久保今助であり、うなぎ丼は芝居町から始まったとしています。
注)  大平椀は底が浅く平たい椀の大きいもの。
 諸白酒は、こうじも米も白米を用いた上等の酒。
 三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)は江戸風俗考証の随筆家(1870-1952)
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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