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江戸名所百人美女 鉄砲洲
歌川豊国(三代目)、歌川国久
画 安政5年(1858) 国立国会図書館所蔵
 NO.155の「日ぐらしの里」と同じ三代豊国の「江戸名所百人美女」シリーズの1枚で鉄砲(炮)洲とあります。中央の女性は提灯(ちょうちん)に灯を入れており、その下の料理を運んできたらしい箱には「あらいや」と店の名が見えます。幕末の料亭の番付などを見てもあらい屋の名はありませんから仕出し屋なのでしょうか。左端の折敷には塗物の食器と、手前には徳利がありますから、これから屋根船での船遊びが始まるようです。
 鉄砲洲は隅田川河口西岸の地名で、現在は中央区湊町と明石町になっています。江戸初期には人の住まない砂洲でしたが、寛永年間(1624−44)に大砲の試射地だったので鉄砲洲の名があるといいます。明暦の大火(1657)後に埋め立てられて、一部は大名屋敷になり、本湊町、船松町、十軒町、明石町ができました。
 海を隔てたすぐ近くに佃島があります。ここは徳川家康に縁のある摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃町)の漁師たちが江戸に移り、正保元年(1644)に干潟百間四方を拝領して宅地を造成し佃島と命名したものです。昭和39年(1964)に佃大橋ができて島ではなくなりました。
 佃島の漁師は関西の漁業技術を関東に広め、江戸城へ魚介類とくに白魚
(しらうお)を献上する役目があり、幕府から優先的な漁業権をあたえられ、佃島は漁師町として発展しました。
 漁師たちは大きな魚は江戸城や諸大名に納めましたが、小さな雑魚(ざこ)は保存がきくように煮詰めて自家用の常備食にしていました。
 初めは塩味のものでしたが、醤油が普及した江戸後期からは醤油・砂糖・みりんなどで煮るようになり、佃島でつくられたところから佃煮と呼ばれて江戸の名物となりました。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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