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豊歳五節句遊(端午の節句)
香蝶楼国貞
(後の三代目歌川豊国)画 国立国会図書館所蔵
 金太郎人形、錘馗(しょうき)ののぼり、鯉のぼりなどが見える端午の節句(節供)の絵です。天保9年(1838)の『東都歳時記』の5月5日の部分を要約すると「江戸城では端午の御祝儀があって諸侯が登城して粽献上があり、民間の家々では軒端に菖蒲や蓬をふき、菖蒲酒を飲み、粽や柏餅を作った。武家はいうまでもなく町方でも、七歳以下の男子がいる家では、戸外にのぼりを立て、冑(かぶと)人形を飾った。また簡易に屋内に座敷のぼりを飾ることや、紙で鯉の形をつくり竹の先につけて立てることもこの頃は行われている。」
 『東都歳時記』には、民間の家々では粽や柏餅を作るとありますが、NO.60の「江戸の柏餅」で引用した鰹節商「にんべん」の高津家の「家内年中行事」文化12年(1815)5月5日の記録、『馬琴日記』の文政11年(1828)5月5日の記録にも節句菓子は柏餅で、江戸では柏餅が主流だったようです。
 幕末になると『絵本江戸風俗往来』には「市中皆柏餅を食う」とあり、同じ頃の大坂町奉行の見聞録『浪華の風』には「柏餅を製するは稀なり、すべて茅巻(ちまき)を用ゆ」とあり、関東では柏餅、関西では粽の現在の傾向は、江戸後期に始まり、幕末にはほぼ定着していたようです。
 粽を端午の節句に用いるのは中国の故事によるもので、日本に伝わったのは古く、平安時代の文献にも粽があります。一方柏餅は『飲食事典』(1958)には「万治(1658−61)の頃までは未だあまねく行はれず」の引用があり、『続飛鳥川』には「柏餅、宝暦(1751−64)の頃より下谷亀屋其外にてうり始」とあるので、江戸中期からのものと思われます。
 江戸初期までは、端午の節句菓子は粽で、中期から柏餅が併用され、後期には関東では柏餅、関西では粽が主流となり現在に至るということのようです。

 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
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