バックナンバーへ
戻る
豊歳五節句遊
香蝶楼国貞(後の三代目歌
川豊国)画 国立国会図書館所蔵
 正月・上巳(じょうし)・端午・七夕・重陽(ちょうよう)の五節句を描いた「豊歳五節句遊」5枚の中、上巳の節句(桃の節句)の絵で、内裏雛を箱から出して飾っており、現在の雛人形にくらべて随分大きく見えます。
 雛人形は、はじめは立雛
(たちびな)で多くは紙でつくられましたが、江戸時代には美しい衣裳の座雛(すわりびな)がつくられるようになり、寛永雛、享保雛、次郎左衛門雛、有職(ゆうそく)雛、古今(こきん)雛などがありました。
 『骨董集』下之巻(1815)には、江戸初期の寛永から元禄頃の雛遊びは質素で、座敷に敷物をしいて一対の雛を置く程度で壇をつくることは少なく、享保頃になって一段を設けるようになったとあります。江戸初期には雛遊びと呼び、雛祭の呼称は江戸中期以降のようです。江戸中期の宝暦・明和頃に次郎左衛門雛が流行するようになって雛人形は立派になり、随身や楽人なども加わって数も多くなり、雛道具も飾られて雛壇も増え、次第に豪華なものになりました。江戸後期の幕府の倹約令の中には、雛や雛道具の華美を制限する禁令もみられます。
 『還魂紙料(かんこんしりょう)』(1826)には、「古老の伝えていふ。むかしはものごと質素にして、雛遊びの調度も今のごとく美麗なるを用ひず。飯にもあれ汁にもあれ、蛤の貝に盛りてそなへけるとぞ」とあり、近年は雛の調度などに金銀をちりばめたりするが、貧しい家では蛤の貝殻に飲食を盛って供えるものも多いとあります。
 蛤の貝殻を雛の食器にするのは、古い時代の上巳の節句では、磯遊びで貝を拾って神に供え、人々も食べたことの名残りと考えられ、現在でも雛祭の料理には、蛤やさざえが用いられています。

 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
掲載情報の著作権は歌舞伎座に帰属しますので、無断転用を禁止します。
Copyright(C) 2007 松下幸子・歌舞伎座事業株式会社