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江戸名所 品川沖汐干狩の図
歌川重宣(二代目広重)画 嘉永5年(1852) 国立国会図書館所蔵
 
 今年4月末ごろの新聞に概要次のような記事がありました。「レジャーとしての潮干狩が盛んになったのは江戸時代からという。庶民の楽しみを長年支えてきた主力のアサリがいま、苦境に立たされている。80年代半ば以降、埋め立て、乱獲、海洋汚染などで、アサリの国内生産量が急減したため、潮干狩場に輸入アサリがまかれるようになり、その中にアサリを食べるサキグロタマツメタという肉食性巻貝がまじっていたため、その駆除が急務になっている」
 
 『東都歳時記』(1838)には、汐干狩は3月から4月(現在の4月から5月ごろ)がよいとして「芝浦・高輪・品川沖・佃島沖・深川洲崎・中川の沖、早旦(朝)より船に乗じてはるかの沖に至る。卯の刻(午前6時ごろ)過より引始て、午の半刻(正午ごろ)には海底陸地と変ず。ここにおりたちて蛎蛤を拾ひ、砂中にひらめをふみ、引残りたる浅汐に小魚を得て宴を催せり」とあります。
 上の錦絵には品川沖の汐干狩とあり、沢山の貝がとれてヒラメらしい魚も見え、いまの潮干狩とは随分違う光景です。
 
 『下級武士の食日記』(青木直己著・2005年刊)は、和歌山藩の下級武士、酒井伴四郎の幕末の江戸での単身赴任中の日記の中から食に関する事項を取り上げたものです。伴四郎は赤坂の藩邸の勤番長屋に住み、日常は安価な食材で自炊をしており、貝類もよく使っています。彼の小遣帳によると万延元年(1860)11月から翌文久元年10月までの1年間に、蛤刺身7回、ばか貝刺身2回、貝刺身1回、しじみ1回、かき1回とありますが、あさりの名が見えず、著者の青木氏は疑問を呈しています。江戸時代に大坂地方ではあさりが採れなかったことをNO.82に書きましたが、大坂に近い和歌山の人も、あさりは食べず嫌いだったのでしょうか。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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